34.三田市廣沢の道標

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三田市上井沢1 武庫川塩掛橋の西、踏切迄の間の道北側、広沢ポンプ場内南西部に南を正面に建つ
(柵があり入れない。)
角柱型 (91x37x40p)
N34.926386 E135.190955


写真fimg8356

写真fimg8357

 (写真なし)

写真fimg8358

南面
┌――――――――――――――――――┐
│左中山(大坂)           │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)

東面
┌――――――――――――――――――┐
│(□□□)             │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)

北面(写真無)
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│(…大□)             │
│(…川□)             │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『三田の道しるべ』より)


(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では34)
(広沢ポンプ場となっているが、住所は上井沢1のようである。広沢側にあるので「廣沢の道標」とした。
  では、元位置は何処かであるが、明治の地図では現JRの線路の西に三ツ辻があり今とほぼ変わっていな
 いと思われる。その辻に北面して立っていたと考えるのが自然であろう。依って
N34.926311 E135.190694
 辺りとしたい。
 南北の道は南の貴志方面から来て広野郵便局の前を通り、この辻を北に直進し「広野495の道標」に続
 く主要道であったと思われ、此処から東に分岐すると武庫川を渡り加茂で現在の国道176号に出会う。
  ここに北面して立っていたなら、丹波方面から南下してきた人に「左(東)中山寺、大阪」を案内した
 道標として不都合はない。
  尚先の道標から南行してきた場合、この辻より北350mの現五つ辻で北東に折れ現国道に出る事も明治
 の地図では可能のように見えるが、明治以前を考えると武庫川を渡る(現広野歩道橋)ことが難しそうで、
 此処で東折れしたのではないかと考える。
 東に進むと「加茂422の道標」に続く。)
(尚、同書では「角柱型」となっているが、「自然石」に当るのではないか。
 西面の上部は大きく剥離しているようで同書の「大川…」がその剥離部分のものか、現存する下部の記述
 に該当するものか定かでない。)
(西面は
 『さんだの道標』三田市教育委員会2000年刊34は「大川□□」「□□□」
 『西国三十三所巡礼道』兵庫県教育委員会1991年刊「…水□…」「…川…」
 『三田の道しるべ』郷土文化研究会1982年刊43は「…大□」 「…川□」とありこれが近いと思う。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 右ポール前に当道標  左、JR宝塚線  奥(東)塩掛橋
 踏切左奥が元位置か】  木の後ろ広野駅】  柵で近付けない】

写真fimg8366 写真fimg8363 写真fimg8361
【4.道標南面拡大 【5.道標を北東に望む 【6.塩掛橋を東に望む
 「左中山」までは  左(西)面下部にも  欄干の左上に旧道
 見えている】  何か刻まれている】  が上井沢の集落へ】

写真fimg7011
【7.三田北部の道標】
写真fimg7009 写真fimg7013
【8.三田西部の道標】 【9.三田東部の道標】
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