31.三田市広野の道標

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三田市広野439 県道92号宮の池北西の四辻を東折し50mの田圃の中、道南側に北を正面に建つ
(東に「広野439の道路元標」が並ぶ)
(県道92号から東の広野公会堂に続く農道のような道で、更に東の「広野495の道標」に出る)
尖頭型角柱 55x21x14p(頂高5p)
N34.931011 E135.185891


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北面
┌――――――――――――――――――┐
│右むらみち             │
│左三田中山             │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│(弘化)四年未八月         │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)

南面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――┐
│西國巡拝供養同行四人        │
└――――――――――――――――――┘


(弘化四(丁未)年八月1日なら、西暦1847年9月10日金曜日となる。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では31)
(同書では「ほ場整備で移動。近くを旧清水街道がが通っている。」とある。元位置を隣の元標と同じとす
 るなら、明治の地図でこの近辺に、広野公会堂の西にあるお堂が卍で書かれその南から西に多少畝りなが
 らも県道92号の現(2019年)作業着販売店の北に続く道が見え、その後はほぼ現県道と同じ経路を採って
 いる。この広野から打場を通り溝口へ続く道(前書の清水街道か)に南の広沢から来る小径がこの道標の
 ある辺りで三ツ辻を作る地点が二ヶ所見え、現在位置に近い方が約50m程西辺りの
N34.931011 E135.18535
 現在は田んぼのど真ん中と、更にその少し西にあたる
N34.931282 E135.184705
 現県道の東側辺りと思われる。
 北から南行する人への道案内であるとすると後者の方に分があるが、圃場整備による移動とするなら前者
 の三ツ辻となりそうであり、一度ならずの移設を受けているかも知れない。
 何れの位置であっても今の様に北面して立っておれば「左三田中山」は東を示し広野公会堂前を通り前述
 の「広野495の道標」に出て良く、「右村道」は南の広沢へ向かうか、途中南西に分岐して下内神への
 道を示していると思われる。)
(北面「右むらみち」の「村」は何処の村であろうか。「右」は前述したように南への道を指すのは違いな
 く横の「貴志村道路元標」にある「貴志村」としたいが、元禄国絵図等で見ると貴志村と南の深田村の間
 に描かれた島ヶ池、寺之池を、今ある池に照らし合わせてみると、貴志村の中心は現在の貴志(バス停)
 辺りで4〜5kmも離れている。依って「むら」は「貴志村」でなく「廣野村」であったと思われる。
  即ち広野村の四人が西国巡礼後に建てたもので、三田、中山方面への案内が主目的であったと考える。)
(圃場整備による道の付け替え部分以外では、北西120mの県道92号の五ッ辻から北と、東の広野公会堂前
 より先は旧道が綺麗に残っている。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を南に望む
 鉄塔左側奥に  左白い建物の横に  道標(右)と元標(左)
 広野公会堂】  旧道の跡が残る】  現在は田んぼの真ん中】

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【4.道標を南に望む 【5.道標北面拡大 【6.道標北面上部
 北面の状態は悪い  「…むらみち」と  「左右」部分は
 肉眼では読み難い】  「…三田中山」】  良く分からない】

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【7.道標東面中央部 【8.道標西面拡大 【9.道標西面上部
 「國巡拝供養同…」  「…四年未八月」  年号一部は欠落するが
 と読める】  四の上「ヒ」と見える】  「ムヒ」で「弘化」か】

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【10.三田北部の道標】
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【11.三田西部の道標】 【12.三田東部の道標】
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