102.三田市藍本276の道標

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三田市藍本276 国道176号市境細田橋北詰から左(東)岸堤防道を南へ630m、三ツ辻北部に西を正面に建つ
(武庫川の白坂橋を東に渡り、100m先のT字路を北に240mの三ツ辻)
自然石 80x35x54p(ほぼ直方体)(17x48x69pコンクリート台に載る)
N34.985881 E135.161935


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西面
┌――――――――――――――――――┐
│右やま               │
│    道             │
│左古市               │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│文化十四丁丑年建之         │
│       @三         │
│       A吉         │
│    施主 忠二郎        │
│       B二郎        │
└――――――――――――――――――┘
(@「巳」、A「庄」、B「浅」等に見えるが)

東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(文化十四(丁丑)年1月1日とすると、西暦1817年2月16日日曜日となる。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では102)
(同書に「丹波旧街道の村山道との分岐路に建つ。」とある。この道標のある武庫川の東側の道は明治の地図でも
 聯路として確認できるが「丹波旧街道」に相応しいのは川西側の道であろう。西側の道は「天保国絵図摂津国」
 にも描かれる主要道である。よってこちらの道は里道と理解したい。勿論「左古市」は北の丹波古市を案内し、
 「右やま」は北東へ分岐し明治の地図で大谷とある道への案内である。)
(同書の南面の紀年の読み下しに「文化十丑年三月…」とあるのは誤りで、正しくは「文化十四丁丑年」で、丁丑
 (ひのとうし)の「丁」の字が大きく右にあり読み落とし、「四」を「年」、「丑」を「三」、「年」を「月」
 と読んだ為と思われる。文化十四年は丁丑年で不足はない。
  次に施主であるが四人の名前が見え、同書では右端を「延玉」とする以外不明としているが、一応読み下して
 みた。一人目は「モ」にエンニョウとみて「延」としたと思うがエンニョウではなく「巳、巴、正」等であろう。
 二文字目は一見「玉」に見えるが「、」のバランスが悪くこれをキズとし、触感から「王」ではなく「三」とし
 た。依って「巳三、巴三、正三」等では無いか。
 二人目、マダレの中に「土」か「ヒ」とみて「庄吉」、三人目は二文字はハッキリト見え「郎」のくずし字が付
 き「忠二郎」、四人目は一字目のヘン部分が読めないが旁部分から想像し「浅、残、銭」等から名前に相応しい
 もの「浅」をとり、良く読める「二郎」に付けて「浅二郎」ではないか。自信はあまり無し。)
(南に「東本庄の道標」、北は「国境碑」に繋がる。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南に望む
 左(北)古市へ  奥、武庫川左岸道  奥、武庫川の白坂橋へ
 右、山道新池へ】  を細田橋北詰へ】  左、山道へ】

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【4.道標西面左部拡大 【5.道標西面拡大 【6.道標西面右部拡大
 「古市」はくずし字  下部の大きな字は  「…やま」は北東の
 で北の丹波古市へ】  「道」のくずし字】  新池への道】

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【7.道標東面左拡大 【8.道標東面右上部 【9.道標東面右下部
 施主と四人の  「文化十四」と  「…十四丁丑年建之」
 名が読める】  読める】  「丁」は右側にある】

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【10.三田北部の道標】
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【11.三田西部の道標】 【12.三田東部の道標】
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