107.三田市東本庄の道標

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三田市東本庄 国道176号四ツ辻交差点北380mの三ツ辻の南東下に南を正面に建つ
山型角柱 66x22x19p(頂高4p)(中央下から28pで折れ)
N34.955082 E135.171535


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南面
┌――――――――――――――――――┐
│    (右)中山         │
│奉□西國丗三所霊場供養塔      │
│   左花山院           │
└――――――――――――――――――┘
(「右」は『さんだの道標』より)、
(□は「度」の様に見える)

東面
┌――――――――――――――――――┐
│明治三十□年三月          │
│ 周旋人   前中儀三郎      │
└――――――――――――――――――┘
(『さんだの道標』では「八」年とするが、
 「九」年のように見える)

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│  同行九人            │
└――――――――――――――――――┘


(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では107)
(同書では「補修のあとが見られる。」とあり、下部に繋いだ痕が今も残っている。)
(明治の地図で当地を見ると、三ツ辻であった事は同じであるがその辻は南30mの小川の北にあったと思われ
N34.954910 E135.171583
 今(2019)の水田1面分南辺りから移設されたものであろう。
  又案内面の向きが180度回転して置かれていたと考えられる。即ち現南面が北面しており、「左花山院」が東
 を示し、「右中山」が現国道176号を南へ四ツ辻交差点へ進む事を示していたと考えられる。)
(南面の「右中山」の「右」は同書より引用した。書かれているのは間違いないと思うが、何処にあるのか位置が
 良く解らず、もし「西國」の「西」の右側辺りとすると「中山」までに二文字の地名があるかも知れない。)
(同書の読み下しに誤りと疑問点があり、一つは「周旋人」を「世話人」とする点。もう一点は「明治三十八年」
 としているが「八」には見えず「九」が近いのではないかと思う。理由として文字の最後がハライ「、」でなく
 真っすぐ右横「一」に延びており「一、二、三、五、七。九」のどれかであろう。上から続いているようなので
 「一、二、三」は除外し、縦棒の位置から「五、七」が除外され、結果「九」とした。)
(東面の読みは通常なら「奉納西國三十三所…」であろうが「納」が読めず。「三十」に当たる字が左右に縦棒が
 見え「三」ではない事が解る。よって「丗三」とした。次の「所」までに小さくカギカッコが見え「ヶ」がある
 としてもよいかもしれない。)
(北は「藍本の道標」から此処へ、南には当分道標はなく、東は「末の道標」に繋がると思う。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を南に望む
 奥(北)R176藍本へ  左、山裾を廻り  奥(南)R176の
 右下に当道標】  北東の東本庄へ】  四ツ辻交差点へ】

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【4.道標南面左下部 【5.道標南面拡大 【6.道標南面右下部
 「左花山院」は  「…西國丗三所…」  「右中山」としたが
 かろうじて読める】  としたがどうか】  「右」は見えないか】

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【7.道標東面拡大 【8.道標東面下部 【9.道標西面拡大
 「…治三十□年」  周旋人の名前が  「同行九人」
 「八年」には見えない】  大きく書かれる】  と読める】

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【10.三田北部の道標】
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【11.三田西部の道標】 【12.三田東部の道標】
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