56.三田市母子美濃坂峠の道標

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三田市母子 県道49号線美濃坂峠のふきのとう休憩所の北20mに北を正面に建つ
(母子小学校の北900mでもある)
山型角柱 88x29x15p(頂高5p)
N35.028315 E135.230561


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北面
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│右 中野村             │
│左 永澤寺 三田街道        │
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西面
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│大正十年十月建之          │
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南面
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│ 母子青年上支部          │
│中村久良  塚本□□  仝 幸次郎 │
│仝 鶴吉  仝 隆治  仝 仁三郎 │
│塚本 龍  仝 周平  仝 二郎  │
│小西 壽  仝 忠一  仝 義一  │
│鷲島順二  仝 實三        │
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東面
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│東宮殿下御渡歐紀念左道改修     │
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(大正十年は西暦1921年である。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では56)
(明治の地図を見ると北の篠山方面から来た道がここで左右に分かれる三ツ辻である事が分かる。何方も聯路とし
 て書かれており同じ幅であったと思われる。現在(2019)では左(南東)の道はハイキングコースの様な山道だ
 が県道308号と49号が合流する三ツ辻の50m程東の大きな石灯籠が二基立つ三ツ辻に出ると思われ、永沢寺には
 こちらが近い。
  右中野村は、明治22年(1889)の町村制により出来て、昭和18年(1943)に広野村になるまで存在したようで、
 上青野、北浦、加茂等が属しており現県道49号から308号沿いの道を示し「右」南西方面への案内として間違い
 はないでしょう。
  又、明治の地図で前述の灯籠の三ツ辻がある辺りを「上」としていることから、そこに出る道を地元の青年会
 が改修に寄与したことを記念するために立てたと思われる。大正の頃に「青年会」が道標を建てる事が流行った
 のか或いは国威高揚策なのか、はたまた、明治41年(1908)に「歩兵第七十連隊」が篠山に置かれた事が関係
 (大阪―篠山の道筋に当る)していたのかも知れない。)
(現在の道路の改修や休憩所の設置等から見て近接移設は免れないと思う。)
(青年会が建てたものとしては、
 「豊中市豊南町東1道標」「吹田市上山手町11の道標」等がある。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を北に望む
 奥(北)篠山へ  奥、永沢寺へ  峠のピークは
 左後が当道標】  後は馬頭観音碑】  少し先にある】

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【4.道標北面拡大 【5.道標西面拡大 【6.道標東面下部
 「右中野村」  「大正十年十月…」  「…左道改修」
 「左永澤寺…」】  と読める】  と読める】

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【7.道標南面上部 【8.道標南面下部 【9.母子上の三ツ辻を北に
 「中村…」等  「塚本…」等  望む「左永澤寺…」道が
 上の二段が見える】  三段の内下二段】  県道308号に出る地点か】

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【10.三田北部の道標】
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【11.三田西部の道標】 【12.三田東部の道標】
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