3.堺市堺区宿屋町東3の道標2

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堺市堺区宿屋町東3−2−41 妙国寺北西三ツ辻の北部に南西を正面に建つ
(西隣に「堺市堺区宿屋町東3の道標」、辻南東部に「堺市堺区宿屋町東4の道標」が建つ)
尖頭型角柱 139x26.5x24.5p(頂高5p)(指差像部10x19x-0.3線刻)(台石22x49x49p)
N34.581641 E135.481105


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南西面
┌─―――――――――――――――┐
│戊辰              │
│  土佐十一烈士墓所(右指差像)│
│殉難              │
└――――――――――――――――┘

南東面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北東面
┌─―――――――――――――――┐
│ 大正六年五月弔魂會建之    │
└――――――――――――――――┘

北西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(大正六年は、西暦1917年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1970(昭和47)年発行には未記載)
(堺市hpに「土佐十一烈士墓は慶応4年(1868年)の堺事件で切腹した土佐藩士11人の墓で、宝珠院境内にある」
 としており、それへの案内である。南東50mに門がある。右指差し像が有るので道標とした。)
(切腹した慶応四年二月二十三日は西暦1868年3月15日日曜日である。事件が二月十五日、フランスの五か条要求が
 十九日らしく余りにも短期に処分がされるとは今の時代には考えられず、当時の政府には遺憾である。
 又、それを美化する様な「殉難」等と案内するものも如何かと思う。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む
 左(北西)妙国寺前駅へ  左から二番目当道標  奥、紀州街道から大阪へ
 右、宝珠寺へ】  宝珠寺は左二本目電柱】  手前が当道標】

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【4.道標南西面拡大 【5.道標南西面下部 【6.道標北東面拡大
 「戊辰」は  「右指差し像」は  「大正六年五月…」
 慶応四年であろう】  線刻で、よく残る】  とある】

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【7.堺市の道標】
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