4.堺市堺区宿屋町東4の道標

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堺市堺区宿屋町東4−1−12 妙国寺北西三ツ辻の南東部に南西を正面に建つ
(辻北部に「堺市堺区宿屋町東3の道標」、と「堺市堺区宿屋町東3の道標2」が建つ)
尖頭型角柱 260x29x32p(頂高約20p高さに含まず)
N34.581557 E135.481109


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南西面
┌─――――――――――――――――――┐
│是より                │
│   明治戊辰殉難土州藩士墓所    │
│東半丁                │
└―――――――――――――――――――┘

南東面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 明治三十六年三月十五日 大澤徳平建之│
└―――――――――――――――――――┘

北東面
┌─――――――――――――――――――┐
│左 名所金光寺藤の明神        │
└―――――――――――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――――――――――┐
│左 とさのさむらいはらきりのはか   │
└―――――――――――――――――――┘


(明治三十六年は、西暦1903年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1970(昭和47)年発行では、堺の44頁。)
(堺事件で切腹した土佐藩士十一人の墓は、宝珠院境内にあるようで、それへの案内である。現在では南東50mに門
 があり、「是より、東半丁」と矛盾はない。
 北東面の金光寺は堺市史第七巻に「藤の名所として喧傳された金光寺は明治三十五年合併せられ、址域を宿屋町
 東三丁寶珠院境内へ編入…東は寶珠院、西は本受寺、南は道路を越えて妙國寺、北は成就寺に持した。」とあり、
 これも、宝珠院への案内であろう。市史にある合併の一年後にあたるが、寺の名前は生きていたものと思われる。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南東に望む
 奥(北西)妙国寺前駅へ  右(南東)宝珠院へ  右端が当道標
 手前が当道標】  手前が当道標】  宝珠院は左二本目電柱】

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【4.道標北西面上部 【5.道標南西面拡大 【6.道標南東面上部
 「左 とさのさむ…」  「是より、東半丁」  「明治三十六年三月…」
 とした】  「…土州藩士墓所」】  慶応四年であろう】

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【7.道標北西面下部 【8.道標北東面拡大 【9.道標南東面下部
 「…はらきりのはか」  「…金光寺藤の明神」  「大澤徳平…」
 とは生々しい表現】  当時も名所だったか】  変った字体である】

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【10.堺市の道標】
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