25.神戸市北区八多町吉尾平井橋の道標1(二基の内西側)

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神戸市北区八多町吉尾717 平井橋南詰の西30m道北側川に面して北西を正面に建つ。
(八多川と吉尾川の合流地点から50m下流右岸でもある。東側にほぼ同形の道標2あり。)
山型角柱 83x21x18p(頂高3p)
N34.831367 E135.208146


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北西面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 右兵ご山田             │
│神                  │
│ 左京大坂中山            │
└―――――――――――――――――――┘

南西面
┌―――――――――――――――――――┐
│     大             │
│二橋施主  浮田五福         │
│     坂             │
└―――――――――――――――――――┘

南東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

北東面
┌―――――――――――――――――――┐
│文政五壬午三月            │
└―――――――――――――――――――┘


(文政五年(壬午)三月1日とすると、西暦1822年4月22日月曜日となる。一月に閏月あり。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では北区32)
(同書に「…もと吉尾平井橋付近にあったが、…永徳寺下に集められている…」としているが現在2020年時点では
 平井橋の南詰から西へ30m程進んだ道の北側ガードレールを越えて護岸壁との間に建てられている。何故このよう
 な位置に建てられたのであろうか。
  明治の地図で現吉尾町圏を見ると7梁の橋が描かれ、八多川に5梁、吉尾川に2梁が有った様である。同書に元
 平井橋とあり、今も平井橋の近くに置かれていることから二橋の内一つは平井橋として良いであろう。この元平井
 橋と思われる橋は当時二川が合流直後の地点で東西に架かっていたようで、東詰め地点はほぼ現在設置されている
 辺りと想像できる。
  現橋の北から西に向かうと「八多町吉尾公会堂の道標」がありそれにも此方方面を「大坂」と案内している事か
 ら、元は東に川を渡り突当りの当道標から左(北)に進むと京、大坂、中山(寺)への道であるのが分る。明治の
 地図では小径が現藤原台の北町辺りを越え、田尾寺へと続いている。右(南)は藤原台中町を過ぎ五社に繋がる道
 が見えるが何れの道も宅地開発により今は辿る事は困難である。)
(施主については「浮田五福は吉尾の出身で、文政年間に大阪に出て五龍院と称し、漢方薬を製造して財をなしたる
 人物で、地元永徳寺には多大なる布施をしたと伝わる。」と前述の書にあり当道標が文政五年であることを見れば
 数年の内で道標を建てるばかりか二橋も建設する財力をなしたものか。)
(尚、二橋については「道標2」で考えてみる。)

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【1.道標を南西に望む 【2.道標を南西に望む 【3.道標を北東に望む
 現平井橋北詰から  左手奥が当道標  手前当道標と奥平井橋
 後方六甲北有料道】  左奥(南)永徳寺へ】  橋を渡り北、県道82へ】

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【4.道標北西面拡大 【5.道標南西面中部 【6.道標北東面上部
 左京の下「大坂」  「浮田五」の上部  読み難いが
 は欠けて読み難い】  右から「大坂」】  「文政五」とある】

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【7.明治の地図
 永徳寺を中心に
 500m圏の様子】

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【8.北区東部の道標】
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