16.神戸市東灘区深江本町3昭和の道標

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神戸市東灘区深江本町3−5−7 阪神深江駅南東の四辻の北東部植込み中に西を正面に建つ
(大日霊女(おおひるめ)神社境内南西部)
角柱 104x22x16p
N34.72216 E135.292373


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西面
┌─―――――――――――――――――┐
│とと や みち           │
│魚  屋 道            │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――――┐
│従是北江              │
│     迄 三里         │
│有馬湯本              │
└――――――――――――――――――┘
(「迄」はシンニュウに「占」と彫る)

東面
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│ 昭和五十七年壬戌年十月建之    │
└――――――――――――――――――┘

北面
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│  深江財産区           │
└――――――――――――――――――┘


(昭和五十七年は西暦1982年である。)
(「ととや道」については先ず解説板の内容を示す。
 「 わが町の史跡 魚屋道
  魚屋道は江戸初期から灘地方と有馬を結ぶ東六甲最
  古の山越え交通路で、当時の絵地図では、森から山に
  登り、蛙岩、山の神、風吹岩、東お多福山、本庄橋、
  一軒茶屋、射場山山腹、有馬のルートを通り、「六甲越え」
  と呼ばれていた。幕府が、灘から有馬への正規の街道を
  西宮、宝塚、船坂、有馬の線に定めた後も、遠まわりを
  嫌った人々はこの道を利用した。そこで、街道沿いの
  西宮や生瀬などの宿場の商人は、これを「抜け荷の道」
  と称して、通行禁止を大阪奉行所へ訴え、しばしば紛争
  が生じた。文化3年(1806)に、灘本庄と有馬の人々が
  ひそかに道の大修理している。深江浜の魚は大正時代
  まで、ここから有馬に運ばれていた。
    文 田辺眞人
   設置 昭和57年10月 深江財産区」
 とある。
  補足すると「当時の絵図」は国立公文書館デジタルアーカイブの「天保国絵図摂津国」を見ると森村から湯山町
 への朱書き線が見えるが峠名は書かれておらず国絵図ではなさそう。又同地図では六甲山の西を通過している様に
 見える。途中蛙岩等の記述は無い。国会図書館デジタルアーカイブの「摂陽群談」山の部「六甲山」コマ25
 に「山頭より有馬湯本に越道あって、六甲越えと号す樵夫如きの者、乃津甲越と云へり、兎原郡森村へ出る所也」
 とあれば、「六甲越え」は使われていたと出来る。
  「文化3年」「抜け荷の道」については神戸深江生活文化史料館ホームページにある「刊行物ダウンロード」
 から「近世農政・民政史料」で検索すると、1987年発行のpdf資料があり最後の方の「魚屋道をめぐる農民たち」
 に詳しく載る。
 ただ、同書にも道筋についての詳しい記述は無いが、参考の為読み易い様に変えてその一部を下に載せておく。
 「同所(湯山=有馬)より青木村まで、およそ道のり三里(12km)ばかりにて…道幅およそ四尺(1.8m)ばかりよ
 り一丈(3m)ばかりに仕立…、湯山町から十丁(1.1km)上の字出合と申す所より字六甲山と申す山までおよそ
 十町ばかり新道を付け、それより青木村までの間わずかの細道を切広げ…、右九ヶ村の内、森村、三条村、北畑村、
 右三ヶ所ヘは、右山根(山麓か)より二十町(2.2km)登り候所に道分け柱(道標か)北畑村より相立、それより
 村々よろしく道ヲ相付けこれあり候。別けて北畑村の道筋はいたって幅広く…」とある。
  「道分け柱」の位置を明治の地図で探すと「山根」を村はずれの山の取っ掛かりと理解し、東灘区本山北町6丁
 目17の田辺墓地南の三ツ辻を起点として、天上川の禊橋東から川沿いに登り、八幡谷から金鳥山を経てその北の
 424.5mの三角点(本庄山か)の北200m
N34.745514 E135.279454
 辺りに三ツ辻が見える。
 そこまでの距離を現在(2020)の国土地理院地図で見ると2km強(19丁)と計測でき、ここに南東の森、三条村方
 面からの道(今の魚屋道)と合流する三ツ辻が見え此処では無いかと思う。未調査である。)
(私見を付け加えておくと、江戸期の宿駅制度と現実の道とは直接関係は無く、古くから人々の生活に関わって道が
 作られ、その後、為政者や権益受益者が制度を作り通行料の様なものを取ったもので、抜け荷用道や生活専用道が
 有った訳では無い。参勤交代等には決められた道が使われたようだが、庶民は便利な道を自由に使うのである。
 又、「ひそかに」とあるのは江戸期に於いては全て役人に届けを出さなければならず、その時口は出すが金は出さ
 ないのが普通であり、伺いを立てれば何時許可が下りるかも知れず、実利を優先させただけのことであろう。
  尚、「ととや道」と呼ぶのは解説板の様に「魚運搬に利用した道」とすると実にもっともらしく感じるため受入
 易く、何時の頃からか定着したものと思われるが、その理からすれば「ととや道」=「六甲山系越え旧道」となり、
 幾筋もルートが有りそうなのに、なぜ此処からの一本だけを呼ぶのか。
 江戸期には多分用いられておらず、明治期以降、現在に至るまで、特に第二次大戦後に恣意的に付けられたと思う。
  道の名前に関しては同上文化三年の訴状に「往古よりこれある奥山道を、有馬海道(街道)に致したき望み有る
 に付き」とあり不明で、用途としても「道出来以前より、海浜の産物続に湯山十六町につかわし、湯治旅人の米穀、
 塩、味噌を入用とし、帰村には杉皮板等を付け帰り」としており魚に限る事は無く、何よりも湯治(遊山)の通行
 が第一であったと思う。)
(加えてもう一つ。道標を見る私にとって、「〇〇道」は道全体を指すものではなく「〇〇に向かう」と理解してい
 る。近世(江戸期)から明治の初め頃まで(明治政府の道路管理機能が出るまで)は京道、大坂道であっても例外
 なくこれであると思っている。よって当道標?の様なものは混乱し、「ととや」には今だに行き着けないでいる。)
(余談は置いて、ここが「ととや道」起点とし有馬湯本を終点とするなら、北660mに「東灘区森南町3の道標」
 最初にあり、「北区有馬町鳥地獄の道標」がほぼ終点と思うが、前者には有馬の案内がない。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標解説板を東に望む 【3.道標南の浜街道碑を
 右、灘目の水車  設置年は道標と同じ  北に望む
 突当り左に当道標】  道自体の解説が少ない】  後植込に当道標】

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【4.道標東面上部 【5.道標東面下部 【6.浜街道碑を南に望む
 「昭和五十七年」  「…壬戌年十月…」  「本街道」とは江戸期
 と読める】  と読める】  の道を指すと思う】

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【7.神戸市東部の道標】
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