2.神戸市須磨区関守町1の道標

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神戸市須磨区関守町1−3−20 関守稲荷神社境内西のブロック塀前に北東を正面に建つ
尖頭型角柱 155x30.5x24p(頂高6p)
N34.644779 E135.113336


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北東面
┌─―――――――――――――――――┐
│長田宮               │
└――――――――――――――――――┘

北西面
┌─―――――――――――――――――┐
│川東左右関屋跡           │
└――――――――――――――――――┘

南西面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

南東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載。)
(南横にあるに『須磨の関の由来』に当道標の解説が載り(下部に全文あり)それによると「市バス須磨駅前の停留
 所から東方百m暗渠になってしまった千森川と旧西国街道の交叉する地点に明治初年土中から掘り出された」とあ
 り、移設は間違いない、では元の地点はどこであろうか。前述の『由来』では出土地点が元位置として、関跡の位
 置を考察しているが、どうかと思う。即ち東面の「長田宮」に触れられておらず、これを解決しないと始まらない。
 現北東面の「長田宮」と北西面の「川東左右関屋跡」を比べると別人のものとも思われ、同時に書かれたものかが
 疑わしい。
  取り敢えず「長田宮」を見るとこちらが主である事は疑いない。「是より」とか「右、左」等が無く、字の配置
 からみて下に「道」が無ければ社標と考えられる。「長田」と付く神社は三社程あり、長田駅北の「長田神社」と、
 「東尻池長田神社」と、この道標出土地点の北西400m「元宮長田神社」が考えられるが、東尻池は現在(2020)
 では小さな祠一つで可能性はなさそう。距離的には三番目の須磨区天神町5の「元宮長田神社」が可能性は高い。
 この神社は「事代主神社」とも呼ばれるらしく、長田町3丁目の長田神社の遷移前の元の神社であるらしい。
 最も有名な長田駅近くの「長田宮」を案内する「長田区長田町4の道標」と比べると字の大きさ等から、こちらは
 社標としたい。社標ならば、元位置は神社参道や鳥居近辺と考えればよいであろう。
  ただこの出土地点にあった限りは道標の機能を果たしていたのは間違いないので少し考えてみる。
  国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [10]のコマ番号14の絵に「関屋跡」があり、41コマ
 の解説には「延喜式に出古関源光寺の西街道の左右に一堆の台ありこれをいふ」としている。事実は不明であるが
 江戸後期の人々にはこれが浸透していたと思われる。よって出土位置とされる所に建っていたなら現北西面が西、
 或いは南西面(千守川の西岸)しており、「長田宮」が西国街道(現県道21号)を指すためには南西から北西の間
 に向いていた(道東側)と思う。明治の地図で同定を試みると、今の千守交差点の北40mの交差点内
N34.644069 E135.115183
 辺りが五つ辻に見えこの北部、西国街道が千守川(暗渠かも知れない)を東に越える手前の道東部としたい。
 筆者注、源光寺は現光寺、千鳥川は千守川、隠(こもり)江は不明(固有の地名では無いと思う)、千守川の幅は
 四間(行程記)で橋が架かっていた。)
(出土の経緯から建立は明治以前となるが、埋もれていた為か古さはあまり感じられない。)
(関係は不明であるが、現光寺の西端崖際生垣中に建つ石があり、東面「須磨の関跡」、南面に「川東左右」と彫ら
 れている。この位置では既に川の東であろうと思われるが、定番の言い回しなのであろう。)
(北西面と似た表現を持つ「須磨浦通4の道標」が村上帝社にあり、当稲荷神社を案内している。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を北に望む
 中央白い板の左に  左(東)に社殿  神社北側の入口
 当道標が見える】  背後に鳥居が有る】  神社東に学校】

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【4.道標北東面拡大 【5.道標北西面拡大 【6.道標北西面下部
 「長田宮」と  「川東…」より  「左右関屋跡」
 大きく書かれる】  川の西にあったか】  と読める】

写真himg1415 写真himg1409 写真himg1408
【7.道標上部を北西に 【8.須磨の関の由来 【9.関守稲荷神社解説板
 見下ろす  道標の南に建つ  関所の守護神としてと
 古さは感じない】  詳細は下参照】  西須磨協議会は解説】

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【10.元位置を南に望む 【11.現光寺の須磨の関跡 【12.須磨の関跡碑を西に
 歩道南端辺りか  碑を西に望む  望む、南面に
 左から信号西へ西国街道】  後崖下に千守川か】  「川東左右」と読める】

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【13.神戸市南西部の道標】


 須磨の関の由来
平安末期の歌人源兼昌が「淡路島かよう千鳥の鳴く声
にいく夜寝ざめぬすまの関守」と詠じ、それが小倉百
人一首等にとり上げられた。市バス須磨駅前の停留所から
東方百メートル暗きょになってしまった千森川と旧西国街
道の交叉する地点に明治初年土中から掘り出されたと
いう一メートル余りの石標がある。一面に「長田宮、側面に川東
左右関屋跡」と刻まれている。この碑面の出土地点から
みれば今の関屋跡といわれている関守稲荷神社の
地点とは大分はなれていて少なくとも千森川の東側に
かっての関屋跡(櫓台)といわれるところが一時期あ
ったということになる。
「紀聞集」に第三十七代天皇の時置ク四境関ヲ鈴鹿の関は
在リ近江、伊勢ニ逢坂関、山城近江一境二竜田関、在リ大和
河内、境ニ須磨関ハ摂津播磨境ニと書かれているがまた
別書に天下三関を大宝律令に定められているのが
「伊勢鈴鹿の関、美濃不破の関、越前愛発(アタカ)の関それ
についで重要なものとして「摂津の関」「長門の関」と
書かれている。しかし須磨の関がいずこにあったかと
言うと諸説まちまちである。又海関であったか陸関
であったかも不詳である。海陸両用であるとの説
もある。
 須磨観光協会

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