7.摂津市鳥飼八防1の道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
摂津市鳥飼八防1-2−28 府道16号鳥飼八防交差点を西へ230mのちびっこ広場北側五つ辻に北東を正面に建つ
角柱 73x32x24p(基部7p高さに含む)
N34.773011 E135.573355


写真himg2043

写真himg2038

写真himg2046

写真himg2040

北東面
┌────――――――――――――――┐
│ 南ヨリ              │
│    右 江口吹田        │
│大坂道               │
│    左 一津や江口       │
└――─―――――――――――――――┘

北西面
┌────――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――─―――――――――――――――┘

南西面
┌────――――――――――――――┐
│すく とん田い者らき        │
└――─―――――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」「直、富田、茨木」)

南東面
┌────――――――――――――――┐
│     廿六本目         │
│右 とん田い者らき         │
└――─―――――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」「右、富田、茨木」)


(『摂津市の道標』市文化財愛護会、平成20年刊では7)
(明治の地図で見ると当地は、公園北の直線の道を除く四つ辻であったと思われるが、地形上いびつな四辻であった。
 道標北東面の「大坂道」を正面にして立った場合左右どちらも「大坂」への道と理解し、右を採ると新在家、別府、
 江口となり、左に行くと一津屋から淀川右岸を江口と何方でも行ける事を示していると思われる。依って辻の西に
 建つ光蓮寺を背中にして建っていたと想像する。一方「富田、茨木」の道は、北へ向い安威川沿いに進む事になり
 これの案内が他の二面にあり同一の道を指しているはずである。南西面が「直進」を、南東面が「右」とするのは、
 西と南の大坂方面から来た場合は道が交わった後に北へ直進する状態となり、東の下鳥飼方面から来る人にとって
 は右と受け取れる位置に置かれていた為であろう。尚、北東の道は少し北で交わっていた様に見え、鳥飼からここ
 を通過しに別府から市場に出る道は市場街道と呼ばれていたらしい。
 これ等を考え合わせると辻の北西部(今は歩道がある)に、ほぼ今と同じ向きに置かれていたとしたい。
  こうすると、北東面に「南ヨリ」と書かれているものが、大坂への道が道標の南側より分かれる事を補足説明し
 たものとして納得できる。但し制作当初から書かれていたかは少し疑問の残る所ではある。)
(前述の書では、南東面の右側を「廿六本目」としておりそれに従ったが「本」では無いかも知れない。丁石の様に
 複数建立しその内の二十六本目とは少し考えにくく、橋の数や札所番号等の関連か、単に地名なのかも知れない。)
(「右江口吹田」へ進み「浜町7の道標」に出て、その後市場街道を選べば「吹田市山田市場2の道標」に至る。)

写真himg2051 写真himg2052 写真himg2090
【1.道標を南東に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を北に望む
 奥、八防交差点へ  奥(西)別府江口方面  右奥(北東)鳥飼下へ
 戦前この道は無し】  左奥(南)一津屋へ】  左奥、富田茨木へ】

写真himg2059 写真himg2054 写真himg2067
【4.道標南東面上部 【5.道標北東面拡大 【6.道標北東面上部右
 「右とん田」は  「大坂道」とあり  「南ヨリ」としたが
 「右富田」であろう】  右側と下部に文字】  「南」は怪しい】

写真himg2061 写真himg2057 写真himg2056
【7.道標南東面下部 【8.道標北東面下部左 【9.道標北東面下部右
 右側「…六本目」か  「左一津や江口」  「右江口吹田」の
 左は「い者らき」か】  とした】  右上は「…ヨリ」】

写真himg2060 写真himg2065 写真himg2066
【10.道標南東面下部右 【11.道標南西面上部 【12.道標南西面下部右
 「廿六本目」か  「すくとん田」  「田い者らき」
 「本」が疑問】  は「直富田」か】  「…茨木」とした】

写真dimg2468
【13.摂津市の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ