19.大阪市天王寺区細工谷の道標2

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大阪市天王寺区細工谷町1−8−6 上町筋国際交流センタ前三ツ辻の東760mの北側の民家前に南東を正面に建つ
角柱 84x17x17p
N34.661803 E135.524936


写真himg4408

写真himg4403

写真himg4406

写真himg4404

南東面
┌─―――――――――――┐
│是ヨリ東 鶯の丘    │
└――――――――――――┘

北東面
┌─―――――――――――┐
│(なし)        │
└――――――――――――┘

北西面
┌─―――――――――――┐
│(なし)        │
└――――――――――――┘

南西面
┌─―――――――――――┐
│是ヨリ東 鶯の丘    │
└――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載)
(道標とするか微妙であるが、上記『研究紀要第三冊』に関連する道標が載り、それに倣う。)
(民家御主人のお話によると「地元の富家御子息の野球倶楽部の有志により、多分昭和初め頃の一種の流行か、地元
 名所を顕彰する目的により七基の石を建てたそうである。」とお聞きした。「鶯の丘」とは地名では無く、桃谷の
 西に連なる桃山があり、昔日は大阪随一の花見スポットであったらしく梅木ならず桃木に「鶯」として洒落て名付
 けたものらしく、現在地なら天王寺区筆ヶ崎町辺りと成ろう。七基の内三基が現存し、これはほぼ元位置に建ち、
 もう一基、道を挟んで南側の駐車場西角に建つ「細工谷の道標3」は、駐車場南西角に有ったらしい。
 三基目「細工谷の道標4」は北東120mにある。
  昭和の初期までは現在の東西の道は無く、この道標の西側には小川が南東に流れ、それに沿って西から来た道も
 南下し、上記「道標3」の地点で北東に折れて、丘を目指していたらしい。依って東西の道が無かった頃の建立で
 あれば、当道標の「是より東」は南東へ道なりに曲がるだけの地点であり、建てる必要が有ったであろうか。もし
 新道開設後であれば、南東の旧道へ進まぬよう、真っすぐに東進を指示するものとして意義はある。今は無い南東
 への旧道は昭和22年修正地図迄は存在していた様である。)

写真himg4413 写真himg4431 写真himg4432
【1.道標を北西に望む 【2.道標を北東望む 【3.道標を東に望む
 鉢植え後に当道標  鉢植え後に当道標  奥(東)細工谷交差点へ
 右、細工谷交差点へ】  左塀は小川だった】  中央、石垣上に道標3】

写真himg4411 写真himg4410 写真himg4412
【4.道標南西面拡大 【5.道標南東面拡大 【6.道標上部を北東に望む
 「是ヨリ東鶯の丘」  「是ヨリ東鶯の丘」  左面は旧小川に合わせ
 現、筆ヶ崎町辺り】  鶯の丘は桃山だった】  た為南西を向く】

写真himg2317
【7.大阪市天王寺区の道標】
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