14.大阪市天王寺区大道3の道標

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大阪市天王寺区大道3−7−3 河堀(こぼれ)稲生神社本殿の南廊下の南下に南を正面に建つ
尖頭型角柱 78x21x20(頂高2p)
N34.649922 E135.51986


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南面
┌─――――――――――――――┐
│すぐ 大坂道         │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│  ひらの大念仏       │
│左 五ばん藤井寺 道     │
│  和州大峯山上       │
└―――――――――――――――┘
(「ば」は変体仮名「者」に濁点)

北面
┌─――――――――――――――┐
│  田なべ在江        │
│右        道     │
│  高野山          │
└―――――――――――――――┘
(「在江」は「在所へ」か)

西面
┌─――――――――――――――┐
│    世話人        │
│ 万忠            │
│     仁兵衛       │
└―――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、35A
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載)
(行先を見ると、「大坂」は「日本橋」辺りへの道(詳しくは「天王寺区茶臼山町1の道標」参照)、「ひらの…」
 は平野区上町1の大念仏寺、「…藤井寺」は西国三十三ヶ所第五番の藤井寺市の葛井寺、「大峯山」は奈良県天川
 村、として、現東面は信仰対象の地のみを示す。次に北面は「田辺の在所へ」と理解し、南北の田辺村、今の東住
 吉区田辺あたりとする、高野山については説明せずとも良いでしょう。
  これらを基に近辺に限り元位置候補を見ると三か所が考えられる。1.神社北東四辻、2.神社南東筋違い四辻、
 3.大道三丁目南部の大きな交差点、となり何れも神社東を南北に通る奈良街道上である。現北面の「田辺在江、
 高野山」を同一道(下高野街道へか)とする点が気にはなるが、奈良街道と左右に分かれる地点としては、3.の
 大道三丁目南部の大きな交差点が有力かと思う。依って元位置は
N34.648964 E135.520166
 辺りで、現住所では天王寺区南河堀町1−14の北側としたい。
 明治44年地図では、四辻の南部辺りに現東面が北東面して建ち、北からの人には、「右高野山」「左大峯山」の
 両方が見えたと想像する。この時奈良街道を北西に進んできた人は、正面に「すぐ大坂道」が見えほぼ西の庚申堂
 の方へ進んだのではないか。道なりに290m西には「北河堀町4の道標3」がある。)
(尚、『大阪の街道と道標』では北面「右田なべ」の下を「住江」とするが、「住」とは読めず「在」でなければ
 「立」等あるが、人扁が付いている様には見えないので「住」は無い。近世で、方向を示す格助詞「へ」を「江」
 とするものは多く、「在へ」としても違和感はなく、上の字との間隔も無く、左の高野山に対して1ヶ所が自然か
 と思う。なぜ、「在」としたのかは、天保国絵図では「田辺村」が無く、「北」と「南」に分かれて存在し、両者
 をひっくるめて表現したものではないか。
  「在」を漢字で書いた例に「神戸市北区長尾町上津421の道標」がある。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を北東に望む
 正面本殿の左側に  木の右、当道標  灯籠の右、当道標
 小さく見える】  左、八幡宮とある】  「すぐ大坂」が南面】

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【4.道標南面拡大 【5.道標東面上部 【6.道標北面上部
 「すぐ大坂道」  「左五ばん藤井寺…」  「右田なべ…」
 何か違和感がある】  西国三十三ヶ所】  「高野山」】

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【7.道標西面拡大 【8.道標東面下部 【9.道標北面下部
 「万忠」意味不明  「ひらの…山上 道」  「…べ在江」
 「世話人」とある】  「道」が南面と異なる】  「…野山」と読める】

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【10.道標西面下部 【11.河堀稲生神社由緒
 「仁兵衛」  「こぼれいなり」の読み
 「衛」はくずし字】  「古保礼」ともある】

写真himg2317
【11.大阪市天王寺区の道標】
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