15.大阪市天王寺区北河堀町4の道標3

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
大阪市天王寺区北河堀町4−26 庚申街道が西を通る天王寺中学の南西角やや東、四辻南部に北を正面に建つ
山型角柱 67x24x15.5p(頂高4p)(下から12pで折損)
N34.649244 E135.51707


写真himg4791

写真himg4792

写真himg4795

写真himg4796

北面
┌─――――――――――――――┐
│    これよ里右たなべ   │
│(梵字)           │
│    者うらくじみち    │
└―――――――――――――――┘
(梵字は「バク」釈迦如来の種子か)
(「里、者」は変体仮名「り、は」
 「べ」は「遍」に濁点)

西面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│  施主 さい□や      │
│      清右(衛門)   │
└―――――――――――――――┘
(□は変体仮名「可」かも)
(( )部は『研究紀要第三冊』より)


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、394
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、28頁)
(『大阪の街道と道標』では、四天王寺から田辺までの道を庚申街道とし、下高野街道の一部としている。
(行先については、大阪市hpの東住吉区の「法楽寺」に「紫金山小松院法樂寺(田辺不動尊)が正しい名称で、昔から
 「田辺のお不動さん」の名で親しまれています。」とある此処を示しているとする。現在の住所は、東住吉区山坂
 1−18−30と成っており、此処からの経路を見ると、南への庚申街道(下高野街道)を進み、阿倍野区松崎町
 4丁目辺りで東に折れ、文の里、桃ヶ池の東を南下すれば、田辺法楽寺となる。)
(明治以前の建立に思えるので大阪市立図書館デジタルアーカイブの近世の絵図を見たが無く、文字の読めるものと
 して、明治5年の『大阪市中地区町名改正絵図(大阪古地図集成第16図)』を下図にしてみた。
  四天王寺南門より下る広い道がやがて細くなり「本清水」と書かれた東辺りで南行する「住吉道」から分岐する
 三ツ辻に当道標が置かれていたと思う。「住吉道」が下高野街道とし、「右たなべはうらくじ」は南行を指示する。
  ここには南20mにある「北河堀町4の道標2」も置かれていたと考えている。
 更にその南70mには「北河堀町4の道標3」もある。)
(東面の施主の次が『研究紀要第三冊』では「きしうや 清右衛門」と成っており、折損のない「…門」まで見えて
 いる写真が掲載されているが、現状は「さい?うや 清右」と読め、?部分は字の大きさから変体仮名の「可」か
 「つ」「の」あたりと思われる。同書の「紀州屋清右衛門」は捨て難いが、「さいかや(雑賀屋)清右衛門」等、
 どうであろう。欠損部を多く見て「さいふや」も面白いか。因みに『大阪の街道と道標』は「きいうや清いづ」。)

写真himg4788 写真himg4783 写真himg4784
【1.道標を北西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南に望む
 右道の北に中学校  中央電柱右当道標  奥(南)高野山へ、
 角を北に庚申堂へ】  右祠の中に道標2】  右(西後北)庚申堂へ】

写真himg4806 写真himg4803 写真himg4787
【4.道標東面中部 【5.道標北面上部 【6.道標を東に望む
 「施主 さい」  「これよ里…」  左前方天王寺中学校
 「きし」ではない】  「者うらく」は「法楽」】  東方面への案内無し】

写真himg4807 写真himg4804 写真himg4820
【7.道標東面下部 【8.道標北面下部 【9.道標上部を見下ろす
 「さい?や」  「…右たな遍゛」  山形の頭頂部は
 「清右…」衛門か】  「…じみち」とある】  良く触られていたか】

写真himg4765
【10.明治5年の大阪市中
 地区町名改正絵図に
 読下しを加筆した】

写真himg2317
【11.大阪市天王寺区の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ