17.大阪市天王寺区北河堀町4の道標1

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大阪市天王寺区北河堀町4−15 上町筋と玉造筋の南河堀交差点西110m四辻北東部蘇鉄の下、西を正面に建つ
尖頭型角柱 98x33x31p(頂高6cm)(龕部44x22x-4p)(立像部28x11x4p)
N34.648476 E135.516697


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西面
┌─――――――――――――――┐
│    安政四丁巳九月    │
│(立像) 法界        │
│      千人ノ寄附    │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│ 右 かうや         │
└―――――――――――――――┘


(安政四(丁巳)年九月1日なら、西暦1857年10月18日日曜日である。この年閏五月あり。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、395
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、28頁)
(両書共に西面の紀年銘と寄附主の読下しに間違いがあ有る様に思う。)
(「法界」一切の諸現象と広辞林にあった。では地蔵に書かれる意味は、理解できません、が、ここに東住吉区のhp
 に「南田辺法界地蔵」の解説があり、それには「「法界」とは、境を知らせるとの意で、道しるべのことです。南
 田辺の地蔵尊は、昔より道に迷う人の為に道を教え…」とあり、これを頼りに単に道標としてみる。)
(『大阪の街道と道標』では四天王寺からこの道標を通り田辺までの道を庚申街道とし、下高野街道の一部としてい
 る。こうなれば北面にある「右かうや」は南を指す事に間違いはないが、明治27年頃の地図を見ると、この辺り
 に辻は無く(西に等高線か道か分らない線が出てはいるが)、明治44年地図に筋違いの四辻が見えるが東西の道
 は主要道には見えない。果たして道標を置くべき位置であろうか。明治44年地図の様に辻が有ったとした場合、
 現北面が西面していれば、西から来た人を「右高野」に正しく案内できる。この時、辻北東部に90度反時計回りに
 廻して置かれていたと考えるならば、地蔵も南面し道からも良く見え一般的な配置となる。)
(先に指摘した紀年銘は、安政四年の干支の後に「九月」がある事と。一般的に施主と表現されることが多い、経費
 の負担元が「千人講」ではなく「千人ノ寄附」と書かれている点である。「寄附」とするものは、明治、大正に入
 ってのものしか見たことが無く、「天王寺区伶人町2の道標」「神戸市北区有馬町炭酸泉源の道標」
 「豊中市豊南町東1道標」「西宮市甲陽園山王町1の西側道標」の四例があるが、近世の道標ではこれだけの様
 に思う。千人とは誇張であると思うが珍しいのではないか。)
(北70mに、おはぐろ地蔵「北河堀町4の道標2」と、90mに「北河堀町4の道標3」がある。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北に望む
 奥(南)高野山へ  奥陸橋は南河堀交差点  奥、おはぐろ地蔵、
 右、JR天王寺駅前へ】  左(北)天王寺中学へ】  道標3、庚申堂へ】

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【4.道標北面拡大 【5.道標西面上部 【6.道標西面右下部
 「右かうや」部の  立像を地蔵立像  「安政四丁巳九月」
 周辺のみ整面】  とする資料有り】  と読める】

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【7.道標西面左中部 【8.道標西面下部 【9.道標西面右下部
 「千人ノ」とある  「法界」の左右が  「安政四丁巳九月」
 「ノ」は小さい】  気になる所】  と読める】

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【10.道標西面左下部 【11.道標西面を見下ろす 【12.道標上部を
 「ノ寄附」の表現は  ほぼ西面するが  北東に望む
 近世では珍しい】  元は南面してたか】  像部の深さ4p】

写真himg2317
【13.大阪市天王寺区の道標】
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