1.大阪市鶴見区焼野2の道標(河内国内)

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大阪市鶴見区焼野2−7−26 浜から西三荘への道が浄教寺前で東に鍵状に折れる三ツ辻東部に南西を正面に建つ
頭丸型角柱 80x25x25p(頂高4p)(西面高104p)
N34.716209 E135.586377


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南西面
┌─―――――――――――――┐
│右 京 守口 八は田    │
│左   のミち       │
└――――――――――――――┘
(「八は田」は「八幡」か)

南東面
┌─―――――――――――――┐
│     住(堂)     │
│左 大坂          │
│     ふ可の      │
└――――――――――――――┘
(「可」は変体仮名「か」、「深野」か)

北東面
┌─―――――――――――――┐
│(なし)          │
└――――――――――――――┘

北西面
┌─―――――――――――――┐
│元治元甲子年六月□立    │
│     世話人 若中   │
└――――――――――――――┘


(元治元(甲子)年六月1日とすると、西暦1864年7月4日月曜日となる。元治は二月二十日に改元。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、377
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(摂津国東端の別所村から東に当る焼野村であるが河内国茨田郡となり対象外である。東西を結ぶ主要な道は無いが
 枝切街道の続きとして調べた所、市内でもあり載せておく。)
(南東面の左下「…の」を「深の」とする資料も有る様だが、「ふ可の」と仮名三文字であろう。取り敢えず「深野」
 とし、東4km辺りに有る大東市深野なら、明治の地図では北の三ツ島から御領へ出る道が近く案内方向が合わない
 と思うが、南回りが一般的であったのかも知れない。或は「天保国絵図」には村としては見えず、現在の町名が昔
 の位置を示していないのかも知れず、今の深野南町辺りに比定すれば南への案内は妥当と思える。
 尚、「の」が付く地名としては「氷野」「中野」がある。
  右下の「住堂」は、大東市浜町古くは角堂浜(すみのどうはま)辺りを示すとすれば、「鶴見区中茶屋1の道標」
 迄南下する必要があったと思われるが、指示方向に問題は無い。又「住道」では無いかについて、この表記の村は
 明治も中期になって成立したと思われ、上部の書き方から「堂」とした。)
(大阪市鶴見区hpの『旧街道と道しるべ』に「焼野2丁目」として載るが詳細は書かれていない。)
(南へ行けば「鶴見区浜4の道標」に出る。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を南西に望む
 奥左(北)中環へ  右、花博通から来て  左(南)花博通へ
 電柱左、野道】  鍵型に左折し北中環へ】  正面、浄教寺】

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【4.道標北西面上部 【5.道標南西面上部 【6.道標南東面上部
 「元治元甲子年…」  「右 京」  「左 大坂」は
 元治は二年まで】  「左」と読める】  間違いのない所】

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【7.道標北西面下部 【8.道標南西面下部 【9.道標南東面下部
 「…六月□立」  「守口 八は田」  「住堂」と読めそう
 「世話人…」とある】  「のミち」とした】  「ふ可の」は仮名とした】

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【10.道標を北に望む 【11.道標南東面下部左
 保護の為か埋め込まれ  脱色してみた
 左面のみ下迄読める】  「ふ可の」としたが】

写真himg2314
【12.大阪市鶴見区の道標】
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