15.大阪市平野区瓜破東7の道標(河内国内)

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大阪市平野区瓜破東7−1−51 高野大橋北詰から東190mの右岸堤防下の地蔵祠内に西を正面に建つ。
(地蔵下部と、左右の面に書かれる。)
地蔵光背型 61x31x16p(像部26x15x1p)(背面は舟形を成す)
N34.599135 E135.554351


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西面
┌─――――――――――――――――┐
│     右  かふや道     │
│(地蔵像)すぐ 志ぎ山なら    │
│     左  ひらの大さ可   │
└―――――――――――――――――┘
(「可」は変体仮名「か」「平野、大阪」か)

南面
┌─――――――――――――――――┐
│  (右) かし原 しぎ(さん) │
│  (左  住吉) さ可い    │
└―――――――――――――――――┘
(「可」は変体仮名「か」「堺」か)
(( )部は『大阪の街道と道標』より)

東面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│ (さの)き(しう)       │
└―――――――――――――――――┘
(( )部は『大阪の街道と道標』より)


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、409
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、43頁。)
(摂津国が東に張り出した喜連村の南隣の東瓜破村であり河内国丹北郡となり対象外である。南北を結ぶ主要な道で
 明治期には中高野街道と呼ばれており、市内でもあり載せておく。)
(現在(2021)の大和川には橋が架かっていないが、明治の地図ではこの地点に高野大橋が有った様で、国立公文書
 館の「天保河内国絵図」でも、太い朱書き線で書かれており、橋は無かったようだが、多分歩いて渡ったと思う。)
(各面の案内であるが、西面を除いてほぼ読めない。祠が邪魔する以外に剥落が激しく且つ下部は損耗か折れたかし
 て無くなっている。上書の記述に頼ってみると、行先には特に問題点は見当たらずそれを良しとして考えてみる。
 現在の表現に変えると、西面「右、高野道」「直、信貴山、奈良」「左、平野、大阪」、南面「右、柏原、信貴山」
 「左、住吉、堺」、北面「?、佐野、紀州」となる。北面の方向が読めなかった様で書かれていないが、私見では
 「直(すぐ)」であろう。
  これらを満足する為には四辻である必要があり、大和川付け替え(宝永元年1704年)以降なら間違いなく堤防上
 に東西の道があり、その四辻に現在の向きのまま建てられていたとしたい。現在は土手下にあり移設されたものと
 思う。)
(尚、風化は激しいが制作年代は上記の「宝永元年(1704年)」より後としても、それほど昔には遡らないと思う。)
(北に向かうと、「平野区喜連4の再建道標」「平野区喜連4の道標」に続く。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南に望む
 鏡後ろの祠に当道標  右、大和川北岸堤防  右(西)堤防に出て
 左奥(北)平野へ】  左(北)平野へ】  現、高野大橋へ】

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【4.道標北面下部1 【5.道標西面上部 【6.道標南面下部1
 上部の一字  立像である  右側「かし…」
 「さ」であろうか】  地蔵であろうか】  と読めるか】

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【7.道標北面下部2 【8.道標西面下部 【9.道標南面下部2
 「き」の下二字  「右かふや道…  左側「…さ可い」
 「しう」であろうか】  左ひらの…」】  と読めるか】

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【10.道標西面下部左 【11.道標西面下部中 【12.道標西面下部右
 「ひらの大さ可」  「志ぎ山なら」  「かふや道」
 とした】  とした】  とした】

写真himg2322
【13.大阪市平野区南部の道標】
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