9.大阪市平野区喜連4の再建道標

↓末尾へ 文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。
大阪市平野区喜連4−4−8 喜連小学校北西の五ツ辻の北北西130mの四辻南西部に東を正面に建つ。
尖頭型角柱 83x15.5x15.5p(頂高3p)
N34.612756 E135.554852


写真himg7074

写真himg7075

写真himg7079

写真himg7073

東面
┌─――――――――――――――――┐
│中高野街道            │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│すぐ こう野           │
│左  ふぢゐ寺          │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│ 喜連北町屋敷組合        │
│平成弐拾六年拾弐月建之      │
│ 喜連環濠地区まちつくり研究会  │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│すぐ ひらの 大坂        │
│左      住吉        │
└―――――――――――――――――┘

【旧道標】『研究紀要』より
(東面)
┌─――――――――――――――――┐
│右 ひらの 大坂         │
│すぐ    住吉         │
└―――――――――――――――――┘

(北面)
┌─――――――――――――――――┐
│すぐ こう野           │
│左  ふぢゐ寺          │
└―――――――――――――――――┘

(西面)
┌─――――――――――――――――┐
│  辻吉兵衛           │
│天保四年             │
└―――――――――――――――――┘

(南面)
┌─――――――――――――――――┐
│すぐ ひらの           │
└―――――――――――――――――┘


(平成二十六年は、西暦2014年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、42頁。)
(当道標の南20m専念寺西の道東に「中高野街道と屋敷小路」の解説板があり、それには次のように(一部)ある。
 「…この細い道が中高野街道であり、往時の姿をそのまま伝えている。すぐ北の中小路との交差点にはこの街道の
 道標(天保四年辻吉兵衛建立)が建っていたが、近年紛失したので、平成二十六年末、やや南側に地元有志により
 復元された。碑面には元の通りに中高野街道の表記と三方面の行先を表示した。」とあるが、上記『研究紀要』の
 記述と比べると「元の通り」とは言えないようである。特に現在(2021)の東面にある「中高野街道」なる表現は
 近世(江戸時代)には有り得ないと思われ、その面にあったと思われる「すぐ住吉」を南面に移動し「左住吉」と
 辻褄を合わせたのではないか。復元の意味では残念である。)
(明治の地図を見ると西の住吉へは直行する道は見えず、集落を抜けた後南に折れ、鷹合の集落をかすめて走る八尾
 街道に出て更に西へ進むものと思われる。上記の解説板には西への道を「中小路」としている。
  一方、中小路を東に村中を抜けると西出戸に出るが、その後の藤井寺への経路は良く分らない。)
(遺失前の道標の位置は、上書の写真から想像すると、2m以内の北側と思われる。)
(南に向かうと、「平野区喜連4の道標」「平野区瓜破東7の道標」に続き、
 北は「平野本町4(全興寺境内)の道標2」の西側に続く。)

写真himg7065 写真himg7066 写真himg7082
【1.道標を北西に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を西に望む
 左端に当道標  奥130m馬倉地蔵  奥(西)住吉方面へは
 奥(北)平野へ】  から喜連へ】  直行道は無く鷹合へ】

写真himg7072 写真himg7067 写真himg7069
【4.道標南面拡大 【5.道標東面拡大 【6.道標北面拡大
 「左住吉」は  近世の道標では  「すぐこう野」
 無かったか】  街道名は無い】  「左ふぢゐ寺」】

写真himg7078 写真himg7062 写真himg7059
【7.道標西面拡大 【8.専念寺西の解説板を 【9.同左
 「平成弐拾六年」  東に望む  「中高野街道と屋敷小路」
 「二十六年」】  近辺の地図部】  解説部、五行目辺りから】

写真himg2322
【10.大阪市平野区南部の道標】
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ