3.大阪市平野区平野本町1の道標

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大阪市平野区平野本町1−5−1 国道165号大念仏寺北交差点から南300mの四辻南東部に北を正面に建つ。
蒲鉾型角柱 68x20.5x16p(頂高3p)
N34.62526 E135.551337


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北面
┌─――――――――――――――――┐
│  ふちゐ寺           │
│左      道         │
│  かしハら           │
└―――――――――――――――――┘
(「ゐ」は変体仮名「い」「藤井寺」)

西面
┌─――――――――――――――――┐
│……年五月吉日          │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│右 大さ可 ミち         │
└―――――――――――――――――┘
(「可」は変体仮名「か」「大坂」か)


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、36A
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、41頁。)
(案内先については少し癖の強い字では有るが問題は無く、北面「左、藤井寺、柏原」、東面「右、大坂」でよく、
 現在地で今の向きのままで矛盾はない。日文研所蔵地図データベースの『攝州平野大絵図(1763)』を見ると、
 大坂方面からの入口となる馬場門口から南下する道(ババモンスヂ)と東は市門口に続く東西の道(市門スヂ)の
 交差点と見える。即ち主要道の辻であったと思われ、道標は必然的なものであろう。その為か通行量も多く触れら
 れる事もよく有ったのか、石の表面は滑らかであり、結果紀年銘の上部(年号)が読めなくなっているのは、明治
 よりかなり前の物ではないかと出来そうである。只、現在の位置では見難く不自然であり元は道の西側に建ってい
 たと考える。)
(西面の年号は読めないが、年数はつぶれた痕が四角くて少し高さがある事から「四」「二」等ではないか。)
(当道標の東西の道は「平野区平野本町4の道標」「平野区平野本町4の道標2」の元位置の筋(セトヤ町スヂ)
 からは二本北の筋に成り、大坂から信貴山に参詣するような場合、平野郷中では一本道ではなく割と自由な経路を
 進んでいたと想像する。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む
 奥(南)道なりに  奥、宮前東交差点へ  西、200mの内環へ
 本町筋商店街へ】  左、大念仏寺北交差点へ】  元位置は道の西側か】

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【4.道標東面上部 【5.道標北面上部 【6.道標西面上部
 「右 大さ…」  「か、ふ」が接近し  「…年五」の上部
 と読める】  間が「;」の様】  文字数も不明】

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【7.道標東面下部 【8.道標北面中部 【9.道標西面下部
 一見「の」は「可」  「ふちゐ寺」  「年五月吉日」
 「大さ可ミち」】  「かしハら」】  としたが】

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【10.道標を南西に望む 【11.攝州平野大絵図に 【12.道標西面拡大
 この位置では  「本町1道標」の  「四年五月吉日」
 「右大さ可」見えない】  想定位置を示す】  にも見える】

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【13.大阪市平野区北部の道標】
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