14.大阪市平野区加美鞍作1の道標(河内国内)

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大阪市平野区加美鞍作1−8 JR加美駅西路地を南へ70m府道5号との四辻の南西部、子安地蔵前に東を正面に建つ。
尖頭型角柱 63x21.5x20p(頂高3p)
N34.626070 E135.566506


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写真himg7600

東面
┌─――――――――――――――――┐
│  平野             │
│左    道           │
│  大阪             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│天保六年乙未四月日        │
│ 末久清@建(之)        │
└―――――――――――――――――┘
(@は「耳、目、月」様に「右」、くずし字「祐」か)
(『大阪の街道と道標』は「佑」とする)
(( )部は『大阪の街道と道標』より)

西面
┌─――――――――――――――――┐
│百度廻リ             │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│  久寶寺            │
│右 八尾             │
│  信貴山            │
└―――――――――――――――――┘


(天保六(乙未)年四月1日とすると、西暦1835年4月28日火曜日となる。この年閏7月あり。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、354
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、41頁。)
(平野川右岸(東岸)から河内国渋川郡鞍作村となり対象外であるが、市内でもあり載せておく。)
(当地を明治の地図で見ると、東西に「八尾街道」が通り東は久宝寺から八尾へ、西は平野の市ノ口から大坂へ続い
 ており、南へは集落中を抜けた後、西に曲がりこれも平野郷樋之後口へと続いている。
  現(2021)東面の「左…大阪」を南の村中へ案内する必要はなく、真っすぐ西の平野郷市ノ口へ案内する方が、
 自然と思われる。その為には南面させる必要があるが、そうすると現南面が西面となり、久宝寺、八尾等が南を指
 し東に向かわない。そこで明治十七年頃の地図を見ると、上で述べた「八尾街道」(現府道5号大阪港八尾線)は
 当村から西には通じておらず村東部を南下し、集落外れで西行きし、平野に向かっている。依って「大阪」は南に
 案内するのが正解であると思われる。
  次に「百度廻リ」が今の位置では「子安地蔵」への願掛けとなろうが余りにも近すぎるのではないか。振り返る
 だけで済む位置に置かれ、奇異に感じる。以上を総合すると平野区加美鞍作1−5−17にある菅原神社の南部
N34.626275 E135.567843
 に有った三ツ辻(神社参道を入れると四辻)の北東部に現在の向きのままに置かれていたとしたい。
 この辻は、東の久宝寺から来た道が鞍作集落の北東端で南に折れる地点であり、西村中へは路地程度の道があり、
 北神社へは参詣道が有ったと思われるが、現在では府道が掘り下げられて辻自体が存在しない。神社本殿迄の距離
 は20m程度と推測され「お百度石」としては適当な距離であったと思う。依って120m程東からの移設と考えるが
 如何でしょうか。)
(西に「平野区加美西2の道標」「平野区平野東1の道標」へと続く。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南に望む
 奥(西)平野郷市ノ口へ  奥(北)加美駅へ  奥(南)鞍作集落へ
 左当道標、後子安地蔵】  右、久宝寺八尾へ】  西に折れ平野樋之後口へ】

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【4.道標南面拡大 【5.道標東面拡大 【6.道標北面拡大
 「右、久寶寺…」は  「左、平野、大阪」  「天保六年乙未…」
 東を指すか、南か】  と読める】  とある】

写真himg7604 写真himg7591 写真himg7607
【7.道標西面拡大 【8.道標を南西に望む 【9.道標北面下部左
 「百度廻リ」  「左、平野、大阪」  「末久清@…」
 とした】  は南集落中を示す】  @は「佑」か】

写真himg2320
【10.大阪市平野区北部の道標】
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