7.大阪市平野区平野東1の道標

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大阪市平野区平野東1−1−1 国道25宮前東交差点五つ辻の南東部に西を正面に建つ。
尖頭型角柱 100x33x31p(頂高8p)
N34.62485 E135.556339


写真himg7155

写真himg7158

写真himg7161

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西面
┌─――――――――――――――――┐
│  ふじいてら          │
│右                │
│  大峯山上           │
└―――――――――――――――――┘
(右「いて」一部欠損)

南面
┌─――――――――――――――――┐
│すぐ 玉つくり          │
│左  天王寺           │
└―――――――――――――――――┘
(右「り」一部欠損)

東面
┌─――――――――――――――――┐
│            金    │
│弘化二乙巳四月 世話人 大    │
│            豆    │
└―――――――――――――――――┘
(「巳」は「己」と刻す)
(下部「豆」一部欠損)

北面
┌─――――――――――――――――┐
│すぐ 道明寺           │
│左  志ぎ山           │
└―――――――――――――――――┘
(「志」は変体仮名「し」「信貴山」か)


(弘化二(乙巳)年四月1日とすると、西暦1854年5月6日火曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、37
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、40頁。)
(案内先については名の知れた地名ばかりで解説の必要もないと思う。そこで道標建立より90年程前にはなるが
 日文研所蔵地図データベースの『摂州平野大絵図(1763年)』を見ると、当地の状況として次のようである。
 河骨池口から南下する道(ココノイケスヂ)と東は市ノ口に続く東西の道(大市スヂ)の交差点で有ったと思われ
 北は玉造へ、東は信貴山へ、南は田畑口から道明寺へ、西は「平野本町1の道標」に出て北へ取れば馬場口か又は
 小馬場口から大坂へと続き、案内としては何も問題はない。昭和七年修正の地図迄は現国道25号二相当する道が
 無く四辻の様で道幅も広くは見えない。東面の紀年銘を裏側にして置くのが自然で、現在(2021)の辻南東部を、
 相対的には元位置のままと考えられるが、国道拡幅等により南へ移動させられていて、西への道とは筋違いの様に
 成っていると考える。依って厳密には10m程度北を元位置としたい。)
(この道標で唯一疑問点が東面の世話人であろう。普通に考えると三名の名前などが縦に書かれているとなるが、横
 書きであるなら、「金大豆」と風変わりな名称となる。他の三面の下部によくある「道」が無い事からも埋没、或
 いは欠損していると思う。尚、その他の欠損部分はセメントで補修されているが、ほぼ読みに間違いはないと思う。
 これ以上の損傷が無いように祈るばかりである。)
(西に「平野区平野本町1の道標」
 南に「平野区平野東2の道標」
 東に「平野区加美西2の道標」
 北西に「平野区平野上町2の道標」等がある。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(南)田畑口  奥(北)玉造へ  正面家の後を西450m
 から長吉長原へ】  右、現25号柏原へ】  に平野本町1の道標】

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【4.道標北面拡大 【5.道標西面拡大 【6.道標南面拡大
 「すぐ 道明寺」  「右、ふじいてら」  「すぐ、玉つくり」
 「左 志ぎ山」】  「大峯山上」とある】  「左、天王寺」】

写真himg7173 写真himg7174 写真himg7157
【7.道標東面上部 【8.道標東面下部 【9.道標を北東に望む
 「弘化二乙巳四月」  「世話人」の下は  元の辻で元の向き
 と読める】  埋没しているか】  と思うが辻は拡幅】

写真himg7714 写真himg2320
【10.攝州平野大絵図に 【11.大阪市平野区北部の道標】
 当道標の
 想定位置を示す】
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