大阪市平野区平野東1−2−16 平野東商店会西側入口四辻南東部に西を正面に建つ。
尖頭型角柱 125x22x21.5p(頂高4p)
N34.623558 E135.556249




西面
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│ 右 道明寺 富田(林) │
│西 │
│ 左 天王寺 大(阪) │
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南面
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│ 右 八尾 法隆寺 郡(山) │
│南 │
│ 左 天王寺 大阪 │
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東面
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│明治三十九年一月建設 大(阪府) │
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北面
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│ 右 天王寺 大阪 │
│北 │
│ 左 八尾 法隆寺 (郡山) │
└―――――――――――――――――――┘
(( )部は『大阪の街道と道標』より)
(明治三十九年は、西暦1906年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、38
『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(道標の東後ろの解説板にあるよう、現在(2021)以前は民有地に有ったらしく、大阪市平野区平野東1−8−43
辺り(現平野図書館南)にあったものと思われる。これの元位置が現在地である事の説明がないのが残念であるが、
妥当とは思うが気にかかる点がある。それは、西面の案内で「左 天王寺 大(阪)」とあり今のように直行する
四辻に置かれた場合は「左」が「北」を示し、他の二面が示す「西」と矛盾する点である。現実には北西に当るの
でどちらも正解とは思うが、一般的な道標では考えにくい。起稿時のミスか、故意か。もし複雑な辻で、南から来
る道が左に湾曲する、或いは西からの道が北に湾曲しているような形状の辻であれば、左を西に受け取る事が出来
たのかも知れない。とすれば元位置では無いのかも知れない。)
(下部は一部埋没し読み取れないが前述の書に従った、解説板も同様である。移設時に基部を失ったのであろうか。)
(東に「平野区加美西2の道標」、
西に「平野本町4の道標2」、
北に「平野区平野東1の道標」がある。)
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【1.道標を東に望む |
【2.道標を北西に望む |
【3.道標を南に望む |
奥(東)樋尻口から |
奥(西)サンアレイ |
奥(南)喜連へ |
八尾、奈良へ】 |
商店街から背戸口へ】 |
解説板に旧田畑門筋】 |
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【4.道標北面拡大 |
【5.道標西面拡大 |
【6.道標南面拡大 |
「右 天王寺…」は西 |
「右 道明寺…」は南 |
「右 八尾…」は東 |
「左 八尾…」は東へ】 |
「左 天王寺…」は北】 |
「左 天王寺…」は西】 |
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【7.道標東面拡大 |
【8.道標を東に望む |
【9.道標東後ろの解説板 |
「明治三十九年…」 |
西面に「左天王寺」 |
「…長らく民有地に保管… |
と読める】 |
南面も「左天王寺」】 |
平成30年…元に再設置」】 |
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【10.攝州平野大絵図に |
【11.大阪市平野区北部の道標】 |
当道標の |
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想定位置を示す】 |
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【道標の東後ろにある解説板の内容を載せておく。】
「道標」は、道路の辻や街道の分岐点に設置される標識で、目的地へ
の方向を示すためのものであり、江戸時代ごろから街道の整備などと共に
設置されたものと考えられます。
この道標は、明治三九(一九〇六)年に大阪府により設置されました。
道路工事により撤去された後、長らく民有地に保管されていましたが、
平成三〇(二〇一八)年一二月に元にあったと考えられるこの場所に
約九〇年ぶりに再設置されました。
大阪市平野区役所
碑文
西 右 道明寺・富田林 左 天王寺・大阪
北 右 天王寺・大阪 左 八尾・法隆寺・郡山
南 右 八尾・法隆寺・郡山 左 天王寺・大阪
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