8.大阪市平野区平野上町2の道標

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大阪市平野区平野上町2−7−25 国道25宮前交差点南30m三ツ辻北東部に南を正面に建つ。
尖頭型角柱 118x29.5x30.5p(頂高6p)(西面龕部108x23x-3p、下71pから上27p右枠部欠損)
N34.625682 E135.554681


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南面
┌─――――――――――――――――――┐
│  ふちゐ寺             │
│右 大峯山上             │
│  かうや山             │
└―――――――――――――――――――┘
(「ゐ」は変体仮名「い」「藤井寺」か)

東面
┌─――――――――――――――――――┐
│   天王寺             │
│すぐ                 │
│   大さか             │
└―――――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――――┐
│                徳 強│
│            世   吉 西│
│右 大坂         話  新 作│
│              人 島 源│
│ 寛政十二庚申歳春三月建之   芋 万│
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――――┐
│   熊野權現            │
│當社                 │
│   祇園宮             │
└―――――――――――――――――――┘


(寛政十二(庚申)年三月1日とすると、西暦1800年3月25日火曜日となる。この年閏四月あり。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、40頁。)
(西面「當社…祇園宮」とあるので杭全神社を指すものとし、この近辺で問題はないと思う。当地を明治の地図で見
 ると、東西の奈良街道から北杭全神社への入口として相応しい辻であり、日文研所蔵地図データベースに存在する
 『摂州平野大絵図(1763年)』に「社内入門口」として描かれその北に鳥居があるのを見ても、社標を兼ねた道標
 が置かれるのもうなづける。現在も道の形状はほぼ変わらないと思われ、道拡幅等を除けば元の位置としたい。
  そうすると筋違いの四辻である。大坂、天王寺方面は西となり東面の「すぐ」、北面の「右」共に一致して良く、
 南面の「右、ふちゐ寺…」は東へ進む事になる。東へ進むと40mで三ツ辻に突当るが、前述の「大絵図」では北へ
 の道は無く南へ折れるだけで、「サンサイコスチ」と書かれた通りを真っすぐに南下して「流口」から高野山へと
 なり、途中の「平野区平野本町4の道標2」の元位置とした辻を東に折れ「樋尻口」から「ふちゐ寺、大峯山上」
 に向うことが出来て、全て満足する。
  筋違いのやや西寄りから南へ分岐する道への案内はされていない。)
(下部は一部埋没し世話人の下部が読み取りにくい。取り敢えずは読んでみたが怪しい事をお断わりしておきます。)
(奈良街道を北西に採ると、遠く「天王寺区大道3の道標」に繋がり、東は時代は下るが「平野区加美西2の道標」
 南は上記「平野本町4の道標2」「平野区平野東2の道標」へと続く。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥(東)突当り三ツ辻  奥(北)宮前交差点  奥(西)旧道大阪へ
 右へ、藤井寺、高野山】  鳥居は杭全神社へ】  南への道も有り筋違四辻】

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【4.道標南面拡大 【5.道標東面拡大 【6.道標北面上部
 「右、ふちゐ寺…」は  「すぐ、天王寺…」  「右 大坂」
 東40mの辻を南へ】  とした】  「寛政十二…」とある】

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【7.道標西面拡大 【8.道標東面下部拡大 【9.道標北面下部
 「當社…」  「天王寺」  世話人の名前が並ぶ
 龕状にして刻す】  「大さか」とした】  屋号等が多いと思う】

写真himg7714 写真himg2320
【10.攝州平野大絵図に 【11.大阪市平野区北部の道標】
 当道標の
 想定位置を示す】
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