87.神戸市北区鈴蘭台南町9の道標

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神戸市北区鈴蘭台南町9−7−12 鈴蘭台駅南口より線路東側を道なりに南へ680mの変則四辻の南部石垣上鳥居の
西横に北東を正面に建つ
頭丸型角柱 74x24x23p(頂高4p)(北東面上部から24pまで厚さ2.5p剥離接着)(右端上から13〜26p欠損)
N34.717476 E135.147017


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北東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│      右 小部村         │
│左 丹生山 左 下村淡 (道)     │
│        河三木         │
└――――――――――――――――――――┘
(( )部は『北区の道しるべ』より)

北西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│下両岐頭矣将来数百年之後而見者     │
亦将有感於横艾淹茂享和二年     │
│仲秋小河元寅建             │
└――――――――――――――――――――┘
(赤字は『北区の道しるべ』より)

南西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│昔英之所如此況後世之人豈有     │
長策哉令懐古者惨状而自堕涙為今     │
│年同志輩交為道表許多正補古人之     │
│意矣此石置于小部村之西南一大松     │
└――――――――――――――――――――┘
(赤字は『北区の道しるべ』より
  同書では三行目「多正」を「望」とする)

南東面
┌─―――――――――――――――――――┐
晋杜預為ニ碑一沈萬山之下一立見     │
山之蓋其意深矣承安年間平相國     │
為丹生山道標今而六百三十余     │
│春秋陵谷変許矣      │
└――――――――――――――――――――┘
(「見」は「山に見」と刻す「ケン山」地名)
(赤字は『北区の道しるべ』より)


(享和二(壬戌)年八月十五日は、西暦1802年9月11日土曜日となる。)
(承安年間は1171年4月21日から1175年7月28日まで、上記の630年を引くと1172年となり矛盾はない。)
(『北区の道しるべ』荒木勉、私家本、神戸図書館、2001年作では23)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では北区115)
(『神戸の道標』に「『小部村之西南一大松』は現地近く(現神鉄車庫付近)の烏原谷越え道にあった。…嘉永四年六
 月二十七日(1851/7/25土曜日)夏祭りの日に倒れた。『横艾淹茂』とは中国語にいう壬戌のこと。」とある。)
(元位置を見てみましょう。南西面「此石置于小部村之西南一大松」が建立位置を表しているようで、小部村が北東に
 あり、これが「右」となり主街道烏原谷越え道であったと考え、「左、丹生山」等へ分岐する道を探せばよい。
  これを明治の地図で探すと、烏原谷越え道と思われる道は当道標の西下を通る道で現車庫により道が少し東に付け
 替えられたと思われる。付け替える前の道にあっては、現道標から北西40m辺りに三ツ辻が有ったように思われ、同
 じく南西30m辺りに「一本松」とする樹木記号が書かれている。依って北西40m(現車庫線路上)辺り
N34.717696 E135.146577
 を元の位置とし、現北東面をほぼ南面させていたと考え、移設とします。
  又地図では、「右、小部村」とする道が間路で、「左、丹生山」が小径となっており、通行量の多いのは右へ進む
 道の方が多いと思われるのに「丹生山」の字が大きいのはなぜであろうか。こう考えると施主は単なる道案内では無
 く文中にある「平相國(清盛)」の故事を重要視して「丹生山」を目立たせたものと考えられる。如何でしょうか。
  烏原谷越え道と思われる道は国会図書館『天保摂津国絵図』でも確認出来る。この図では烏原村から現山田町の東
 下村へ直線的に続いており、ここを左にとり現鈴蘭台南町の辺りか西鈴蘭台駅西を通って長坂山のすぐ西を通り東下
 村に至る道が、主要道で有ったのかも知れない。
  尚、文中の「烏原越道」は『神戸の道標』の「西小部村の萬福寺前をすぎ」に従ったが、此の道は東小部村を抜け
 現甲栄台5丁目辺りで北西に分岐し緑町5丁目から西に別れ谷筋を山田町原野への経路を指すと解釈した。)
(漢文の表記に関して。『神戸の道標』に三面の読み下しがあるが、文字の下部が隣の行の先頭に書くべきである等、
 内容はともかく、若干あやしく思う。『北区の道しるべ』の方がよさそうに見えたので、自身で確認出来無かった部
 分はそれを引用させて頂いた。読めない部分を赤字にしておきました。又、一部文字コードの関係で他の字で代用し
 た部分もあり、その他篆書と思われるものも楷書にした。『北区の道しるべ』の「望」は「多正」の二字とした。
  尚、南東面にある630余年を経て「僅存少許」とあり、当時はまだ道標が残っていたのであろうか。今見つかれば
 850年ほど前のものとなり、最古の道標となるかも知れない。)
(「右、小部村」に従い現在の西小部に出ると「山田町杉尾神社の道標」がある。
 「左、丹生山」に行けば遠く「山田町東下の道標」に繋がるものかも知れない。)

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【1.道標辻を南西に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を北に望む
 右の樹木下に当道標  奥右(北)旧道?を  右端は白長稲荷神社
 鳥居の左が入口】  現鈴蘭台東町2−3へ】  右の道南は先で左下の道へ】

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【4.道標を南西に望む 【5.道標北東面上部 【6.道標北西面拡大
 道標西は崖下を  「左 丹生山」  2行下から3行目に紀年
 旧道相当は烏原へ】  と読める】  「享和二年仲秋…」と読める】

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【7.道標南東面拡大 【8.道標北東面下部 【9.道標北西面下部
 「平相国」2行目下  「右 小部村」  「…和二年」
 「丹生山」3行目読めず】  「左 下村淡/河三木」】  と読める】

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【10.道標南西面上部
 3行目下あたり
 「多正」は「望」か】

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【11.道標南西面下部
 左端に設置場所
 「小部村之西南一大松」】

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【12.北区南部の道標】
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