103.神戸市北区淡河町投町山の辻環境センターの道標

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神戸市北区淡河町投町山の辻 国道428号淡河環境センター入口前西の旧道との間の植込み中に南を正面に建つ
尖頭型角柱 81x30x30p(頂高8p)稜線目立たず、上部は四面共一部欠損
N34.796785 E135.128608


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南面
┌─―――――――――――――――――――┐
│  淡河町               │
│左       道           │
│  小河 吉川             │
└――――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│  木津                │
│右       道           │
│  きよミ川              │
└――――――――――――――――――――┘
(「川」は変体仮名「つ」で「清水」か)

北面
┌─―――――――――――――――――――┐
│ 文化十四年              │
│奉納西國三十三所供養塔         │
│ 丁丑三月(日)            │
└――――――――――――――――――――┘
(「養」は「美」に「良」と刻す))
(( )部は『神戸の道標』より)

西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│  淡河町               │
│施主    八人            │
│   同行               │
└――――――――――――――――――――┘


(文化十四(丁丑)年三月1日とすると、西暦1817年4月16日水曜日となる。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊ではbU7)
(行先について確認しておきます。先ず東面の「淡河町」は天保播磨国絵図の「淡河村」として現在の行政区の「北区
 淡河町」の様に広くとらえず、「北区淡河町淡河」あたりとする。南面「木津」はあちらこちらにあるが、一番近い
 現在の「淡河町木津」としても問題ないでしょう。この様に解釈すると、北寄り(右)の道が「木津」、西寄り(左)
 が「淡河町」に向かう事になる。
  『神戸の道標』に「むかし山田から淡河へ行くには、無動寺の裏から…くつかけ峠を越えて投町山のこの道しるべ
 の立つ辻につき、右の道をくだって行原・木津・淡河に入った。」とあるが、上記の淡河村を適用する限り、右の道
 をくだっては「淡河」へは行けない。尚、「くつかけ峠」が何処を指すか理解できていませんが今の岩谷峠とすれば
 道標から240mほど南の地点か。「右の道をくだって淡河」とする点を除けば、今の位置に立っている限り、右の道
 は投町山山頂のほぼ西までは少しであるが登ったあと木津に向け下り、左「淡河町」へは現在の国道428号相当の道
 をそのまま下っていく、事を示している。
  次に、進むべき方向から、「左、小河、吉川」の「吉川」は現三木市吉川町と思われ、三木市吉川町奥谷で国道か
 ら別れ、県道354号に入り吉川町古市に出る道を示していると思う。この道は「天保播磨国絵図」にも太い朱書きで
 描かれており、一里塚もあることから主要道であったと想像できる。尚、「小河」は同定出来ていません。
  次に東面「きよミ川」の「川」を変体仮名の「つ」とし、「きよみつ」と読み下せば「清水」のこととし西国三十
 三所の「御嶽山播州清水寺」を示すと思う。現在ならば国道を淡河へ出て向うと思うが、徒歩であれば木津町へ出て
 淡河町をバイパスする方が近い様である。よって「右、清水」となる。)
(移設に関しては、国道の拡幅や、淡河環境センターの建設等で避けられないと思うが、明治の地図からしてもほぼ元
 位置にちかいであろう。敢えて移設とはしない。播磨国絵図では「石なげ辻」としており、国境としているが、明治
 の地図ではやや北側に境界線が引かれている。厳密にはいずれの国に属したかは分からないが、施主の住所を見ると
 播磨国の淡河町の人達のようで、摂津の国の人に便宜を図ったものと考えられる。)
(現在の国道428号には直接繋がっていないような道であるが、道標から南へ2qの岩谷橋(谷間をまたぐ橋)の北辺り
 に出たと思われる、岩谷川左岸の道に「山田町福地字岩ヶ辻の道標」があります。
 現在では岩谷橋の北50mに岩谷川を西に越す小さな橋があり、上記左岸の道は見えないが、右岸を下る道らしきもの
 がありハイキング道にさえ使えない様に思えるが何処かで左岸に渡れば、この小橋から南西に直線で800m程の距離
 となる道標にたどり着くのでしょう。ただし未踏査である。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を南西に望む
 左奥、木津へ  右奥、木津へ  右(西)淡河へ
 背後に国道428】  左奥(西)淡河へ】  左(南)福地へ】

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【4.道標西面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標東面拡大
 「施主、淡河町」  「左、淡河町」  「右、木津」
 「同行、八人」】  「小河、吉川、道」】  「きよミ川、道」】

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【7.道標北面上部 【8.道標を北西に望む 【9.道標を南東に望む
 「文化十四」  上部欠損等で丸いが  奥、200m岩谷峠
 「丁丑三月」】  尖頭型とした】  左(東)環境センター】

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【10.道標北面下部 【11.道標辻を北西に望む 【12.岩谷橋南詰めより
 中央「…供養塔」  左、国道淡河へは下り  北を望む、左奥辺りが
 左「月日」か】  右、木津は少し登る】  旧谷左岸道との合流か】

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【13.北区南部の道標】

 2023/7/13 追記
 丹生山参道の丁石を見てきたついでに参考として追加します。
 「左、淡河町」に従い、国道428号淡河本町交差点南90mまで4km程下ると「神戸市北区淡河町淡河の道標」
 出会いこれが明治十年頃の建立で「左、山田・兵庫」を案内しており、又、明治20年の地図には県道以上の道と
 して描かれていることから、明治に入っては「左 小河 吉川」が主要道であったと思われる。
  参考として丹生山参道概略図等付けておきます。
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写真iimg5382
【14.丹生山参道概略図】

【参考】
 『今昔マップon the web』では明治43年測図の地図が見られます。
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