90.神戸市北区山田町福地字岩ヶ辻の道標

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神戸市北区山田町福地字岩ヶ辻 県道85号北の六條八幡本殿前より北東へ170mの四辻を北に急登し580mの池下三ツ辻
を西へ100mの三ツ辻を北へ下り(380mに沢)420mの三ツ辻北東部に北東を正面に建つ
山型角柱 82x24.5x23p(像部21x肩11x10p)(頭部7x6.5x1.5p)
N34.775617 E135.130028


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北東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│    右 ひやうご          │
│(座像)       道        │
│    左 兵ごまや山         │
└――――――――――――――――――――┘

北西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│ 安政七申三月吉日           │
└――――――――――――――――――――┘

南西面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

南東面
┌─―――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(安政七(庚申)年三月1日とすると、西暦1860年3月22日木曜日となる。この年閏三月あり。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では北区94)
(先ず行先ですが、「右、ひやうご」は「兵庫津」で問題はないでしょう。「左、兵ごまや山」を二つの行き先を案内
 するものとすると、「兵庫」に行く人はどちらを行けば良いか分らなくなると思う。よって、山号の様に理解して
 「兵庫の摩耶山刀利天上寺」としたい。『攝津名所圖會』. [11]のコマ番号50などには「佛母(ぶつぼ)摩耶山」と
 あるが、この辺りの人は「兵庫摩耶山」と呼びならわしていたとしておきたい。
  尚、どちらを進んでも同じとする「東灘区住吉本町3の道標」もあるが、これは明記されている。)
(同書に「『右ひやうご』は清光寺・休松・小部・烏原、『左兵こまや道』は福地・蓑谷・狼谷・五辻・柿木塚、徳川
 道、桜谷、摩耶」へと通じる。」とある。これをこの地であてはめると、「右、兵庫」は六條八幡神社へ南東行し、
 「左、兵庫摩耶山」こちらも南東行となり、同じ道を進む必要が有る「右、左」の案内は矛盾する。
  そこで、明治の地図を見ると現在と同じ三ツ辻ではあるが、北東の稚子ヶ墓山方面から下って来た道が南南西の谷
 沿いを現六條八幡神社の西150mに出る道(同書は『くつかけ峠道』下記参照)と、南東の尾根を越えて六條八幡神
 社の東へ向う道との三ツ辻に成っており、現「太陽と緑の道」の標識が立つ北西への道が見えない。
 即ち、「右、兵庫」は今は無い岩谷川の谷沿いを進み六條八幡宮の西に出る道を案内し、「左、兵庫摩耶山」はここ
 から南東に分岐し山を登り返して現「新兵衛石」の西の山田町福地1辺りへ出る道を示したものと考えられる。
  北東面して立っているのは下って来た人に正対し「右、川沿い」「左尾根への登り」を素直に示したものである。
  国会図書館の『天保国絵図』では、福地から明要寺(丹生山)の北東を通り「なげ町山」へ続く朱書きの道が見え
 「播磨国行原村迄三里二十五丁三十間」としている。この道が多分国道428号に相当すると思うが岩谷川から国道
 が離れるあたりから、やや西へ分岐して川沿いに下って来た道上にある道標であったと思われるが、その道は書かれ
 ていないのは主要道でない為であろう。この左岸(東側)の道は今の国道には繋がっていない様だが、国道の岩谷橋
 の北側あたりが分岐点であったと明治の地図からは読み取れる。未踏査で憶測であるが国道に出て、岩谷峠を越えて
 240mほどに「北区淡河町投町山の辻環境センターの道標」があります。
  尚、道標南東40m程に巾1m程の小さな沢があり、2021年現在橋が架かっておらず飛び越える必要があります。)
(『神戸の道標』に別項の道標ではあるが、この道標とよく似た形態のものがあり、それには「押部谷方面に多く見か
 けられる。」とある。これが西区の押部谷町であるなら未調査でなんとも言いようがないが、北区の摂津国域でも、
 時代は大分後の大正時代となるが、「藍那字伝庫西の道標」「藍那21の道標」がある。
  又、「左、兵庫摩耶山」への経路で「福地・蓑谷・狼谷…」を「福地・蓑谷・上谷上・狼谷…」と解釈すると、
 「山田町上谷上61の道標」に繋がり、これとは別の経路として「福地・中村(又は原野村)・東小部・五辻…」を
 考えると「山田町杉尾神社の道標」の元位置とした地点を通過したと思える。但し東小部を経由すると1q程長くな
 りそうで案内としては不適切であろうが、歩きやすさの点ではこちらが勝るように思える。)
(安政は七年三月十七日で終り十八日からは万延と年号が代わる。銘では「吉日」としているので日にちは明確でない
 が当然製作中に次の年号が分るわけでもなく、改元されていても旧年号で問題は無いでしょう。改元時の道標につい
 ては同じ北区で「道場町日下部南口踏切の道標」がありそちらを参照下さい。)
(「くつかけ峠」は国会図書館の『山田村郷土誌』に見えるが、詳細な経路は不明である。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を南に望む
 裏面が見え多分右奥  左(南東)福地へ  奥、南東に向き福地へ
 旧道ならば岩谷峠へ】  案内の右道は無い】  右手前、太陽と緑の道標識へ】

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【4.道標を南に望む 【5.道標上部を南西に望む 【6.道標北西面拡大
 今の右への道は  像部奥行きは10pで  「安政七申三月…」
 北西、岩谷川へ】  石柱の約半分を彫る】  と読める】

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【7.道標南東面拡大 【8.道標北東面上部 【9.道標北西面中部
 下部苔の少し上は  頭部は欠けるが  「安政七申三…」
 キズであろう】  全体的に良く残る】  と綺麗に読める】

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【10.道標北東面下部左 【11.道標北東面下部 【12.道標北東面下部右
 「兵ご」漢字とカナ  「右 ひやうご」  「ひやうご」の「ご」
 一つの案内先とした】  「左 兵ごまや山」】  は濁点表記】

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【13.北区南部の道標】

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