29.神戸市灘区原田青ケ谷35行者堂跡の道標

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神戸市灘区原田青ケ谷35 摩耶山青谷道の行者堂跡入口右(北東)側に南東を正面に建つ
自然石 85x28x36p、台石24x54x46p
N34.725194 E135.203222


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南東面
┌─―――――――――――――――――┐
│五流正統報恩院           │
│      直同行         │
└――――――――――――――――――┘

北東面
┌─―――――――――――――――――┐
│春ぐ布引 兵ご(道)        │
└――――――――――――――――――┘
(「春」は変体仮名「す」)
(( )部は『神戸の道標』より)

北西面
┌─―――――――――――――――――┐
│(不明)              │
└――――――――――――――――――┘

南西面
┌─―――――――――――――――――┐
│右 まやさ(ん道)         │
│     (是より八丁)      │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『神戸の道標』より)


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では灘区14)
(北東面読み下しは「すぐ、布引、兵庫」、南西面は「右、摩耶山」であろう。同書にある「是より八丁」は気になる
 ところであるが確認出来ない。現「11丁」と「6丁」丁石との間で、11丁から100m程の距離にあり、道標とし
 ては「八丁」としても問題は無いと思う。丁石については「摩耶山丁石一覧」参照。)
(道案内よりも宗派の顕示が目的のようにも思える。行者堂跡とあるが繋がりは知らない。)
(上書詳しい解説があるので一部抜粋してみます「五流とは、後醍醐天皇の後裔を称して岡山県の児島に勢力を持った
 熊野本山派の山伏衆をいう。尊滝寺のもとに建徳院・伝法院・大法院・吉祥院・報恩院の五院があり、この五院の山
 伏は「五流山伏」と称されて熊野では別格視されていた。この内の報恩院の直系山伏が、摩耶山行者谷の山伏と長く
 関係を維持してこの道標を建てたと考えられる。」としている。)
(道標の解説は「青谷道と布引方面から登る旧道の出合い地点、行者堂の前に建っている道標である。」とするのみで
 その他は書かれていない。掲載される写真をみても現在とほぼ同じ位置に置かれている様に見えるが、門扉の石柱の
 様なものが後ろに建てられそれにセメント付けされてしまい南西面の下部が読み取れない。よって読み下しはそれに
 頼った。建っている位置と辻の関係を見ると、北西から平坦となった旧道に南から登って来た青谷道が逆Y字状に
 合流する辻から10m程北側で、西に階段を登り行者堂跡へと向かう入口の右手(北西部)に建っている。
  さて行先を見ると、摩耶山への道は北東への登り一本みちであり現状位置では直線的に進む事になり違和感を持つ
 敢えて解釈するなら、石段を一、二段登り道標の南西面の正面に立ち、「右」側の道とすれば良いが、本来なら「す
 ぐ摩耶山是より八丁」とすべきであろう。「すぐ布引、兵庫」は旧道を指しているのは明確であろうが上記の分岐辻
 に立ち止ったならばむしろ「右布引、兵庫」としてほしい。移設されたとするなら、ここからは勝手な想像ですが、
 青谷道が現在の様にスムーズに合流せず、谷筋から北西に登り直線的な旧道にT字型に突当っていたとして、辻の右
 奥(北部)の旧道の左側にあったとすれば、青谷道から来た人に、「右、摩耶山」を案内して解決する様に思う。
 依って、現在より10m程南西に置かれていたのではないか。)
(「すぐ」や「兵ご」の濁点記述はひょっとすると新しいものかも知れないが、近世の道標にも存在はする。)
(建設年は不明だが摩耶山刀利天上寺は国立国会図書館デジタルアーカイブ『攝津名所圖會』. [11]のコマ番号48、49
 の絵や、同、コマ番号50に説明には、上野道の様子が載るが青谷道は書かれていない。
 これは、大坂方面からの参詣道として上野道が主であった為で、青谷道が無かった訳ではないと思う。又、上記行者
 や、現三宮方面からの人は西から登ることとなる旧道(現、旧摩耶道)を利用する方が距離は短かく成ると思うが、
 丁石は残されていないようである。「中央区熊内町9の道標」はこの道を案内していると思うが未踏査である。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 右奥(北東)摩耶山へ  右側が南東面で施主  右側が北東面で
 左階段は行者堂跡へ】  道標左は石積門柱か】  「すぐ布引…」とある】

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【4.道標南西面拡大 【5.道標南東面上部 【6.道標北東面上部
 「右まや」までは  「五流正統…」  「春ぐ布引」
 よく読める】  は施主か】  「春」は「す」】

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【7.道標南西面下部 【8.道標南東面下部 【9.道標北東面下部
 右「さ」と「ん」の一部  「報恩院」  「兵ご」
 左は「是」の一部か】  「直同行」は意味不明】  濁点表記である】

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【10.道標から南西を望む 【11.道標北東面拡大 【12.道標南西10mの辻を南西に望む
 すぐ布引の旧道は  左の位置から  現案内柱に右「旧摩耶道」
 中央現案内柱を右へ】  見える面の拡大】  左「青谷道」とある。布引は右へ
 
 
 この右辺りが元の位置か】

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【13.神戸市東部山岳部含の道標】 【14.摩耶山丁石一覧(明治44年)】
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