灘B1.神戸市灘区摩耶山丁石一覧

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マップ「灘区摩耶山丁石一覧」はこちら   神戸市の道標(於、明治の地図)」はこちら

写真iimg3353 写真iimg3286 写真iimg3295
【A.起点となるか 【B.旧摩耶山刀利天上寺配置図 【C.本堂跡を北に望む】
 仁王門を北西に望む  仁王門から本堂跡まで
 仁王さんはお留守】  水平距離230m、高低差70m】

写真gimg8353 写真gimg8721
【D.上野道案内図】 【E.青野道案内図】

0.始めに
 神戸市灘区摩耶山町に存在した天上寺への丁石をまとめてみました。
 参道開始と目的地辺りを除き、個別の解説は省きました。
 マイマップは道標と区別し単独で作成しております。上記から参照下さい。
 明治の地図から一部の個別解説を参照する場合は上記「神戸市の道標(於、明治の地図)」からお願いします。
1.摩耶山と参道の概要
2.寺の状況
3.上野道の一覧
4.青谷道の一覧

1.摩耶山と参道
  丁石の対象地点として摩耶山刀利天上寺として問題はないでしょう。
 現在では昭和の火災以降元の寺域には建物が無くなっているが、そこを摩耶山として考えてみます。
 ここを目指す参道としては、現在のハイキングコースなどを参考にすると四本のコースが有る様で、東から
 1.摩耶東谷道
 2.上野道
 3.青谷道
 4.旧摩耶道
 と呼ばれる南からのアプローチが挙げられます。
 又、北方面からの参詣もあったはずで、例えば、三田方面から谷上経由や、三木方面から小部峠経由等が考えられる。
  現在では丁石の残る道として「上野道」と「青谷道」がありこの二本についてまとめています。
 近世から明治辺りまでの丁石を対象としたいのですが、紀年銘が入っていない「米(m)」表示を使っている標石
 も掲載しました。移設や道の付け替えを考えるときの参考になると思います。
  さて、丁石の原点(0丁)をどこにするかについては異論があるかも知れません。
 寺院に関しては多く本堂、舎利塔を起点とする様に思うが、ここの場合は仁王門前が目標地点とされているいる様で、
 本堂までは3丁程度離れている。少しでも参詣道を短く感じさせるためであろうか。

 1.摩耶山へ  2.刀利天上寺へ  3.上野道へ  4.青谷道へ

2.刀利天上寺
 wikiに「山号は佛母摩耶山、摩耶山真言宗の大本山。本尊十一面観音菩薩と仏母摩耶夫人尊。通称は天上寺」とあり
 「昭和51(1976)年、放火のため、仁王門や一部の塔頭・庫裏を除いて全焼。現在は北方約1kmにある摩耶別山に移
 して再建」ともあり、現在の「摩耶山史跡公園」が元の位置であろう。
 国立国会図書館デジタルアーカイブ『攝津名所圖會』[11]のコマ番号48、49寛政10(1798)刊の絵に上野道が見える。
 同、コマ番号50の説明部には当時も火災の後で修理中である事が書かれています。

 1.摩耶山へ  2.刀利天上寺へ  3.上野道へ  4.青谷道へ

3.上野道一覧
  上野道は現摩耶ケーブル駅の西側から尾根筋を北西に登る道で、丁石起点となる「十八丁」は駅階段西に置かれて
 いるので移設されたことは明白です。よってこれを無視して、「十七丁」から始まるとすれば標高160m地点から、
 仁王門標高540m迄、380mの高度差を1853mの距離で登る傾斜のキツイ道(斜度20%)である。
  現在に残る丁石から考えると、時代により参道が変化したことが分かります。それは、ケーブル駅が出来る前と後
 とに分けることが出来ると思います。ケーブル虹駅が無い時代を明治の地図より想定すると、ほぼ現在のハイキング
 道と変わらない経路が参道であったと思われるが、ケーブルが出来た大正14年以降はケーブル駅から新しい参道が造
 られこちらが主流になることは避けようがありません。
 この新し道は、ケーブル駅を西に出て北西に緩やかに登り山の東側をほぼ等高線に沿って、峠茶屋跡の30m手前辺り
 でそれまでの上野道に合流し以後は従来の参道となります。勝手にこの道を「上野道ケーブル参道」と呼ぶ事にする
 と、仁王門下にある「灘区摩耶山仁王門前の道標」から駅まで6丁(654m)あったことが分かり、当然この道にも
 丁石を建てた事は想像が付きます。先の上野道との合流点が3丁の先、4丁の少し手前にあたるので、上野道に4丁
 以降の丁石が有れば「ケーブル参道」には僅か一基「5丁」の丁石を建てるだけで良かったのですが、旧道の丁石が
 遺失していたのか建て替える必要があった為か4、3、2、1丁も新設したと思われる。
 私の勝手な想像では「過去の上野道参道のイメージを払拭する為「新丁石」で統一して建て替えたと」としたい。
 これが2丁を除き現存する1から5丁が同じデザインの理由であり、道標建立と同時に建てられた丁石となる。)
  前述の『攝津名所圖會』から上野道が第一の参詣道か、文中に「曲磐七折(きょくばんしちせつ)」「坂路に三箇
 の憩所(やすみしよ)あり」等とあり、どこにあたるのであろうか。「内外(ないげ)の石階(せきかい)七段都
 (すべ)て百九拾八段なり」の石段の数が今と違うとの話は時々聞くが、休憩所の場所と屈曲点(カーブajについ
 てもぜひ教えて頂きたいと思います。

摩耶山上野道丁石一覧

丁数
m数
位置正面方向道の左右表記大きさ机上残
距離m

18丁
N34.719776 E135.216222階段の左(東面)
           文安四
(梵字)自山上十八町
           六十八
一石五輪塔
144x25x23p
(地輪高96、水輪16
火輪14
風輪6
空輪12p)

1962


17丁
N34.720042 E135.214537左谷側(東面)
(梵字)十七
一石五輪塔か
50x16x16p
(頂残部高5p)

1853


16丁
N34.720436 E135.213496南西右山側(南西面)
(立像)十六丁
(南東面)
十方檀那
(北西面)
(梵字(キリーク)らしき一文字)
一石五輪塔
85x17x17p
(地輪高63、水輪11、火輪11p、風輪欠損、空輪欠損)
(像部31x12x-1p)

1744


13丁
N34.722972 E135.213629西右山側(西面)
(梵字)十三丁
(梵字「キリーク」は千手観音の種子か)
一石五輪塔
130x18x17.5p
(地輪高93、水輪11、火輪11、風輪5、空輪10p)

1417


8丁
N34.7264101 E135.2103533南東左山側(南東面)
(立像)八丁
角柱
73x16x16p
(像部28x10x1p)
像部は1p彫下げ

872


大正
5丁
N34.7273644 E135.2108004右谷側
倒置
(上面)
五丁
(右面)
五四五、五米
(左面)
大坂新堂庄太郎
尖頭型角柱
測定忘れ

545


大正
4丁
N34.727633 E135.209705左山側(北面)
四丁
(西面)
四三六、四米
(東面)
大坂新堂庄太郎
尖頭型角柱
97x17.5x16p(頂高4p)

436


大正
3丁
N34.7277126 E135.2086133左山側(北面)
三丁
(西面)
大坂新堂庄太郎
(東面)
三二七、三米
尖頭型角柱
88x17x16p(頂高3p)

327


大正
1丁
N34.7285513 E135.2074238南西右山側(南西面)
一丁
(南東面)
一0九、一米
(北西面)
大坂新堂庄太郎
尖頭型角柱
83x18x16p(頂高3p)

109

10
大正
仁王門前大正の道程標
N34.728861 E135.20709南東右山側(南東面)
   是より
道程標 ケーブル  六丁
       まで
(北西面)
大正十四年七月吉日
(南西面)
大坂今福城東巡航船合資會社
   新堂庄太郎
尖頭型角柱
85x18x17p(頂高3p)

0

11
仁王門
N34.729883 E135.206317起点

0


注)「正面」とは丁数の刻まれている面、「道の左右」は摩耶山へ向かって、「大きさ」は基礎部を含まない地表高、「頂高」は上部の高さ。

写真gimg8278 写真iimg3701 写真iimg3693 写真iimg3654
【1.丁石始「十八町」2398m 【2.「十七丁」1800m 【3.「十六丁」1744m 【4.「十三丁」1417m
 文安四(1447年)とある  銘は無いが古い  銘は無いが古い  銘は無いが古い
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写真iimg3611 写真iimg3586 写真iimg3567 写真iimg3546
【5.「八丁」892m 【6.「5丁」545m 【7.「4丁」436m 【8.「3丁」327m
 ここまでは古い  大正期の丁石  大正期の丁石  大正期の丁石
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写真iimg3523 写真iimg3272 写真iimg3353
【9.「1丁」109m 【10.起点の道程標 【11.仁王門】
 大正期の丁石  大正14年系統の
 青谷道に一丁はない  上野道1〜5丁へ
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 1.摩耶山へ  2.刀利天上寺へ  3.上野道へ  4.青谷道へ

4.青谷道一覧
  青谷道は青谷川の谷筋を登る道で、22丁石のある標高130mから、仁王門標高540m迄、410mの高度差を2398mで
 登り平均斜度は17%となる。上野道よりやや緩いものの、谷筋道なれば昔は歩きにくい道であったかと思う。明治の
 地図より、堰堤(砂防ダム)建設部を除き、ほぼ現在の道と変わらないであろう。尚、現在の国土地理院の地図では
 行者堂跡より上野道出会いまでの道筋の九十九折れ部分が上手く表現できていない様に思う。
  青谷道における丁石に唯一紀年を持つものがあり「明治42(1909)年」とあり、他の丁石も形態や大きさがほぼ
 同じである事を見れば、同時期に建てられたものとみても良いのではないか。
  一方「米(メートル)」で表記されている距離標石には建設年を持つものが無いが、日本でのメートルの使用が
 「1885年にメートル条約に加盟し明治24(1891)年に度量衡法が公布」とあるように「丁」と「米」の違いで「米」
 が新しいとは出来ない点を指摘しておきます。又、m標石の最初の石が建っていないのだが「残距離と進んだ距離」
 を表記している点から2400m地点が最初となり、もし建てるなら22丁(2398m)が建っている地点となるでしょう。
 こう考えると、m標石も同時に建てられた可能性も考えられる。
 但し、中間点となる11丁(1199m)丁石のある水場付近に1200m標石が置かれておらず、12丁(1308m)丁石よりも
 手前(麓側)に置かれている点が気になる。これは、1200m標石が大きく移設された事を示唆するものではないか。
  尚、現在は北畑第二砂防ダムがある地点では折返しの坂になっており確実に当時の距離より増えている上、道も付
 け替えられており12丁丁石も移設されているのは疑いない。ダム完成が平成元(1989)年2月となっているので、少
 し古いハイキング案内書等を当たれば旧位置なども分るかも知れない。
  m標石は立ち止って正対した時に登るべき側(仁王門側)に残距離が来るように彫られており、予め道の左右どち
 らに立てるか決まっていたようである。丁石なら施主や紀年が無ければ距離さえ合えばよく、気を使わなくてもよい
 のかも知れない。
 尚、仁王門下に昭和十二年の建設となる「灘区摩耶山仁王門前の昭和の道標」が達ち「米」の表現を用いているが、
 上記のm標石とは無関係と思われる。

摩耶山青谷道丁石一覧

丁数
m数
位置正面方向道の左右表記大きさ机上残
距離m

22丁
N34.716458 E135.209192南西右谷側(南西面)
是ヨリまやさん
 廿二丁
□□
(□□は「東へ」か。)
(南東面)
明治四十二年二月建之
(北西面)
   久野木松太郎
施主
   前手鶴(蔵)
58x21x18p(頂高7p)

2398


1800m
N34.718908 E135.206907北東左山側(北東面)
一八00
    米
 六00
93x16x13p(基部29p含む)

1800


16丁
N34.719741 E135.205306左山側(東面)
十六丁
66x18x16p(頂高7p)

1744


1600m
N34.720335 E135.205011左山側(東面)
一六00
    米
 八00
40x16x13p

1600


15丁
N34.720618 E135.204921左山側(東面)
十五丁
65x18.5x15p(頂高7p)

1635


1500m
N34.720760 E135.204838左山側(東面)
一五00
    米
 九00
70x16x12p

1500


1400m
N34.721688 E135.204661左山側(東面)
一四00
    米
一000
64x16x13p

1400


1200m
N34.723215 E135.203495南西右谷側(南西面)
一二00
    米
一二00
67x16x13p

1200


12丁
N34.723596 E135.203232左山側(東面)
十二丁
63x18.5x15.5p(頂高7p)

1308

10
11丁
N34.724649 E135.202893左山側(南面) 十一丁79x18.5x15.5p(頂高7p)

1199

11
8丁道標
参考
N34.725194 E135.203222南東左山側(南東面)
五流正流報恩院
      直同行
(北東面)
春ぐ布引 兵ご道
(南西面)
右 まやさん(道)
     是(より八丁)
85x28x36p

872

12
800m
N34.7258004 E135.2048235左山側(南面)
 八00
    米
一六00
66x16x13p

800

13
700m
N34.7262828 E135.205267西右谷側(西面)
一七00
    米
 七00
65x16x13p

700

14
6丁
N34.7263817 E135.2053569右山側(南面)
六丁
51x18.5x16.5p(頂高6p)

654

15
400m
N34.7281361 E135.2058754北西右谷側(北西面)
二000
    米
 四00
52x15x13p)

400

16
2丁
N34.728519 E135.207013西左山側(西面)
二丁
51x18x14p(頂高6p)

218

17
100m
N34.728623 E135.207264左山側(南面)
 一00
    米
二三00
49x16x12.5p

100

18
灘38
仁王門前の昭和の道標
N34.728831 E135.207065南東右山側(南東面)
青谷摩耶橋ヨリ
 二千四百米 標高五百六0米
(北東面)
昭和十二年八月
(南西面)
神戸突破嶺会
角柱
141x14x13p

0

19
仁王門
N34.729883 E135.206317起点

0

20
本堂
N34.730684 E135.205840本堂跡前  

-350


注)「正面」とは丁数の刻まれている面、「道の左右」は摩耶山へ向かって、「大きさ」は基礎部を含まない地表高、「頂高」は山型部の高さ。
 丁数からmへの換算は109mとしている為、109.1mとした場合より10丁で1m短くなります。

 1.摩耶山へ  2.刀利天上寺へ  3.上野道へ  4.青谷道へ

写真iimg3058 写真iimg3072 写真iimg3076 写真iimg3084
【1.丁石始「22丁」2398m 【2.米標石始「1800m」 【3.「16丁」1744m】 【4.「1600m」】
 「詳細」はこちら  「詳細」はこちら

写真iimg3091 写真iimg3097 写真iimg3103 写真iimg3114
【5.「15丁」1635m】 【6.「1500m」】 【7.「1400m」】 【8.「1200m」中間点です
 
 
 
 本来は11丁と並ぶが
 
 
 
 移設時、進行距離と
 
 
 
 勘違いして置いたか】

写真iimg3121 写真iimg3131 写真iimg3186 写真iimg3200
【9.「12丁」1308m 【10.「11丁」1199m中間点か】 【11.「8丁」872m行者堂跡 【12.「800m」】
 1200m標石と共に  
 「詳細」はこちら
 砂防提建設で移設か】

写真iimg3207 写真iimg3218 写真iimg3227 写真iimg3235
【13.「700m」】 【14.「6丁」654m】 【15.「400m」】 【16.「2丁」218m】

写真iimg3242 写真iimg3353 写真iimg3295
【17.「100m」 【18.仁王門「0丁、0m」】 【19.本堂跡「-350m」】
 「詳細」はこちら

写真iimg3504
【20.参考、仁王門前の
 昭和の2400m道標
 「詳細」はこちら

写真iimg3360
【21.摩耶山丁石一覧(明治44年)
 廿二丁丁石とほぼ同時期の地図に
 現建立地点をプロットしたもの】

 1.摩耶山へ  2.刀利天上寺へ  3.上野道へ  4.青谷道へ

【参考】「今昔マップ on the web」で現在地図と比較できます。
文字ずれ時はブラウザの幅や「Ctrl」と「+」、「-」キーで倍率変更等して下さい。 ↑先頭へ