青谷道2.神戸市灘区摩耶山1800m標石(道標では無い)

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神戸市灘区摩耶山青谷道字小屋場大原か 青谷道の上亀滝砂防提過ぎ茶畑手前、左側に北東に面して土手に埋る
(地図上では「廿二丁丁石」より600m地点)
角柱 93x16x13p(基部29p含む)
N34.718908 E135.206907


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北東面
┌─―――――――――――――――――┐
│一八00              │
│    米             │
│ 六00              │
└――――――――――――――――――┘

その他面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には記載なし。)
(青谷道最初の米(メートル)標石である。他の同様標石から見て参道残距離と進行済距離を表す標石である。「丁」
 で書かれていた場合なら「丁石」となるが「米」とあるので「米石」とすべきかも知れないが、なじみがない為単に
 「標石」とした。明治に入っては行先と距離を示した「距離(行程)標」が見受けられるが、行き先がない為これと
 区別した。特徴は行先が書かれておらず、「摩耶山天上寺」参詣道との暗黙の了解が必要なのは丁石と同じである。
  他の標石を含めて考えると、道の左右に置かれ、それぞれ進む側に該当する距離が書かれている。即ち、参詣の為
 の残り距離数を見る場合は常に登り側に書かれた数字が丁石の役目を果たしている。行き先が書かれていないのでこ
 れは譲れない表現方法である。当標石では「一八00」が天上寺(仁王門)迄の距離で、正対したとき右へ進む事を
 示している。
  何れの標石を見ても、左右を合計すると2400mになり、二十二丁(2398m)と同じと見て良いであろう。そうすれ
 ば参道起点は「廿二丁丁石」のある地点となり、出発地点にも石を置かないはずはないと思うが、現在では見当たら
 ない。紛失したのであろうか。尚、丁石と同じであれば到達地点の「0米」石標は建てないと思う。
  現在「廿二丁石」の横に昭和十二年(1937)」の銘を持十五周年記念石が立つが、白いアクリル板ようのものが糊
 付けされており標石かどうか確認出来ない。上部の隙間から覗いてみたが「メ」のような文字が見えるだけである。
 「メートル起点」とかあれば納得いくのですが「…記念碑」とありそうでは無さそうである。
  そこで次のような考えが浮かんだので書いておく。
 「メートル」の使用が明治24(1891)年の度量衡法以降のようで、廿二丁丁石の建設時期「明治42(1909)年」より
 古くから使われていた事になる。よってこの丁石を立てると同時に作られたとすれば、開始地点に二基の石を建てる
 必要はなく、以降は単位が異なる為それぞれ違う位置に置かれる事になる。但し倍数の関係で「十一丁」と「1100m」
 標石は同じ位置に置かれたことになりそうですが、現在では「1100m」標石は存在しません。これは起点と同じく重
 複を避けたと解釈でき都合がよい。)
(関連して、100m手前の「1200m標石」は本来なら「十二丁(1308m)」より上(寺より)に置かれるはずであるが、
 現実には手前に置かれていて、明らかに移設があったものと思われます。平成元(1989)年完成の「北畑第二砂防提」
 建設により道が付け替わったからであろう。)
(尚、丁石は全て頭頂部が山型で、角柱部分は18X15p前後で揃っている。先頭の「廿二丁」だけは21x18pと一回り大
 きいのも一般的である。「m」標石は上部が平らな角柱で16x13p程度と丁石より少し小振りである。)
(同様の標石の最後は「100m石標」を、参詣道入口は「廿二丁丁石」を参照。)
(又、「摩耶山丁石一覧」も合わせて参照下さい。)

写真iimg3071
【1.標石を西に望む
 右、登り摩耶山へ
 左上部は茶畑か】

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【2.起点?の記念石を南に望む
 m標石の最初の石ではない
 後ろは廿二丁丁石】

写真iimg3360
【3.神戸市摩耶山丁石一覧】
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