91.茨木市宿久庄5の道標(遺失)
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茨木市宿久庄5−14−5 豊川小学校体育館北西の三ツ辻(新屋坐天照御魂神社の東)辺りを探したが不明
『わがまち茨木』(道標編)75の内容を載せる。
形状、サイズともに不明
N34.840464 E135.526639
正面
┌────――――――――――――――┐
│左 かちをじ 外院村 浄西 │
└――─―――――――――――――――┘
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では75)
(「豊川小学校横を、上河原より鳥羽へ行く道が、現在の府道勝尾寺・茨木線と交わった角に道標が有った。」とあり
写真は掲載されていない。読み下しは昭和29年豊川中学校社会科クラブによるものらしい。昭和57年の調査時点で
不明。現在2022年も不明。
場所の詳細に加え、辻の形状と設置向きが書かれているとありがたいのであるが残念ながら、上記の記述と添付の
大縮尺の地図しかなく、候補地も二地点挙げられそうである。
一点は上記にあげた地点で、勝尾寺へは北の道を進み川合橋を目指す事になり南面していたと思われます。旧西国街
道の岡山(現豊川四丁目辺り)から勝尾寺を目指す経路上となる。
二点目は、『わがまち茨木』の述べる位置と思われる宿久庄4−4−36
N34.840967 E135.528578
辺りで、明治の地図を見ると足のあるワイングラスの型の三ツ辻となっており、此処なら是非案内が欲しい地点にな
りますが、今では昔の道の痕跡さえ分からない。多分、旧西国街道の
「茨木市豊川1の道標」
から分かれて、清水の
村内で東に分かれすぐ北に勝尾寺川を渡り上河原村の東で現府道に南から突当る辻であった地点と見える。
但し、何方の辻であったとしても、昭和に建てられた勝尾寺への案内がある「宿久庄七丁目1の道標」地点に達せ
ず、府道4号(茨木・能勢線)の付け替えがわかる。)
(総持寺から勝尾寺への巡礼となれば
「宿川原町10門前西端の道標」
等の辻で北に分岐し、二点目の辻には繋がるが、
上河原橋を越えて村中を過ぎ一点目の辻には進まないであろう。)
【1.一点目辻を北に望む
【2.石柱を北東に望む
【3.『わがまち茨木』が
奥下り東へ川を越すと
ぬか喜びした石は
元位置とする辻を
二点目の辻に出る】
旗竿支柱や玉垣用か】
北西に望む】
【4.茨木南部の道標】
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