94.茨木市上音羽多留見峠の道標(遺失)

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茨木市上音羽 府道110号西に分岐し1.4qの垂水峠の現棒道標から西に30m辺りの峠の三ツ辻に見つからず。
写真と『わがまち茨木』87の抜粋を載せる。
尖頭型角柱 82x15x12(頂高3)
N34.902721 E135.513525


写真iimg6539

右面
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│明治十六年 未五月       │
└――――――――――――――――┘

正面
┌――――――――――――――――┐
│    是ヨリ御山迄      │
│妙見山        六十七丁 │
└――――――――――――――――┘

左面
┌――――――――――――――――┐
│    尾張一ノ宮       │
│寄附主      春日井勝平  │
└――――――――――――――――┘


(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では87
(同書では「泉原村より上音羽村へ行く旧道路の多留見峠に建っていた。…新しい道路が出来て旧道は通らなくなくな
 り、幅広い道に雑草が繁っている。…現在地は不明である。」とあり、峠を探すも見当たらなかった。
  明治の地図で当地を見ると、峠付近には五本の道が接続しており、ほぼ現在と同じ様に見える。東と南の道は細い
 道(小径)ですが、南東府道110号から分かれた太い道(聯路)がこの峠で西(聯路)と北西(間路)に分かれてい
 る様に描かれており、此の西寄りの何れかの道を案内したと思われる。北西にはすぐに谷筋を下り始め木代へ向い、
 西へは少し平坦な道を進んだ後山腹を下り福田を経由してこれも木代に出ます。何方を案内したかにより建っていた
 位置が変わると思います。指示する67丁の距離を見ると、野間口に建つ「豊能町野間口の道標」が18丁としてい
 るので、聯路に相当する福田を経由する道がそこまで48丁、合計66丁と距離的には近い。これに比べ北西の道は
 5丁程少ない。依って西の聯路を指示する様に建っていたものと思う。)
 北西の谷筋道を進むと、亀岡街道(現府道110号)の「豊能町木代法華塔の道標」の200m西に出るようですが未踏
 査です。
 西への道は300m程の地点で害獣柵により通行できません。)
(上記写真は峠の三ツ辻を西に見た写真です。右(谷筋)に下る道の右(北側)に怪しげな石が幾つか積まれていた。
 台石にも見えたが真相は分からない。元は上記考察で左側に東面或いは北面して建っていたのではないか。
  案内されていた「妙見」道は多分左(西)への道であろう、下草が刈られており、倒木があるも300m程は下れた
 が、耕作地に出る直前で害獣柵で行止りであった。)
(尚、茨木市街方面から多留見峠への道を府道110号の分岐に立つ「多留見峠1.4q」棒標(上音羽バス停南250m)
 からとしていますが、明治の地図ではその南750m程の題目石塔の建つ南から分岐し佐保川に沿って登っているよう
 に見えます。)

写真iimg6514 写真iimg6555 写真iimg6536
【1.府道110号多留見峠への 【2.峠30m手前の進入口を西に 【3.峠側から進入口を
 分岐辻を南に望む、  望む、白看板左奥への道が  東に望、奥(東)へ下り
 棒標を右へ1.4q】  峠に続く、右は旧小径の道】  府道110号へ1.4q】

写真iimg6531 写真iimg6504
【4.峠の進入口東に立つ 【5.明治期の多留見峠への
 上音羽案内の道標、上部に  分岐辻を北西に望む
 多留見峠の地図がある】  現在は府道90m先に辻】

写真eimg4663
【6.茨木北部の道標】

写真eimg4675
【7.茨木南部の道標】
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