3.大阪市此花区島屋3の道標

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大阪市此花区島屋3−2−1 北港通の春日出中3交差点西の南西70m三ツ辻を南東に折れ220mの道東の共同墓地内に東を正面に建つ。
自然石 54x45x20p、東面幅31p、南西面幅24p
N34.676345 E135.445636


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東面
┌─――――――――――――――――――┐
│  でんぼ              │
│右                  │
│  あま               │
└―――――――――――――――――――┘

北東面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南西面
┌─――――――――――――――――――┐
│左 おきしま             │
└―――――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(自然石としたが、上部から見るとほぼ四辺形で、東面が一番広く31p、その左側の面(南西面)が24pとなっており、
 多分整形されて平滑な面にされていると思う。また上部も削られているように見える。この二面は135度程度の角度を
 成しており、この両方が正面として置かれていたものと思う。)
(東面の「右、でんぼ、あま」は「右、伝法、尼崎」を示し、南西面の「左、おきしま」は「左、恩貴島」であろう。
 この内「恩貴島」が此花区HPに「宝暦9(1759年)年、正蓮寺川開削によって北沖島と南沖島に二分」とあるが、現在の
 何処を指すかは明確でない。
 公文書館デジタルアーカイブ『天保摂津国絵図』(天保九(1838)年完成)を見ると「恩貴島新田」が正連寺川の北
 にあり、西に「秀野新田」、東に「孫右衛門開」、「南伝法村」、川を越え「伝法村」が見える。
 川の南には「恩貴島新田村の内出在家」と東に「春日出新田」となっており、これに従うなら、現北港大橋の北辺り
 を指すとするのが良いと思う。尚、wikiによると「恩貴島新田」は明治22年迄使われていたようである。
  これが明治の地図になると北港大橋の北(現茜島1丁目)に「恩貴島北町」、川南に「恩貴島南町」(現春日出北
 3丁目)と分断されている。現道標の近辺で「伝法」が右、左が「恩貴島」となるには、明治の地図にある「恩貴島
 南町」を指すと考えざるを得ない。
  明治の地図(今昔マップon the web)で共同墓地の辺りを見ると、南側の安治川と北の正連寺川に挟まれ、更に北側
 に新淀川が流れている。「スタンダード石油会社」の「|」の左に墓地の「┻」記号が見える。
 細かく見ると墓地の北東側には小さな川がψ字状に流れ、墓の東の三ツ辻とその東の西成線(現桜島線、ゆめ咲線)
 が描かれており、東から来る道が踏切を渡り三ツ辻になっている。三ツ辻を北西に採り北春日出方面への道を進むと、
 西(左手)側に墓地記号が書かれており、現在の道との位置関係は少し異なるようだ。
 この三ツ辻から南に直線300mの安治川に「松鼻渡」とあり対岸の「湊屋町(現、弁天ふ頭西)」に繋がっている。
  一方市立図書館のWebギャラリー『弘化改正大坂細見地図(1845年)』を見ると、当地が「南新田」に当ると思われ
 同じ島のすぐ西から北に恩貴島が描かれ「おきしま」は正連寺川左岸(南岸)を指すと出来る。正連寺川北側にわず
 かに「ヲキシマ」とはあるが、小さく書かれているので無視。伝法へは北の四貫島を通り野田島から「ワタシ」で
 正連寺川を越えて繋がっており、更に渡しで中津川(現新淀川)を越えて、経ヶ嵜に上るがその先尼崎への道は書か
 れていない。)
(さて、墓地内に置かれている為移設は間違いないとするなら何処に置かれていたものであろうか。上記に長々と書い
 たのはその為である。
  即ち候補地が二ヶ所考えられ第一は、墓地入口から南東へ90mの地点となる三ツ辻で
N34.675725 E135.445989
 東には此花区春日出中3−1の地番表示がある三ツ辻の北西部に、現在の向きそのままで置かれていたと考えれば
 「左、恩貴島」は安治川口駅に出て北に折れる間路を進む事になり案内は満足する。
  第2候補は、上記安治川の松鼻の渡し(昭和迄あり)を上がり左右(北東から南西)の道に突当る三ツ辻正面
N34.674738 E135.444819
 此花区島屋3-1-10の三ツ辻北部(現四辻)が考えられる。此処なら現東面がやや南側に向いていたとなる。
  案内の欲しさ加減からいうと第二候補もあるが、近さと道路状況から第一候補としたい。
  が、市立図書館のWebギャラリーの『大阪古地図集成第22図、明治18(1886)年地図』を見ると、現墓地の入口辺
 りから、点線で示される西への道が分岐していると受け取れる。この場合なら入口前の三ツ辻を元位置としてもよさ
 そうで、此処からの近接移設と考えても良いかも知れない。
  更に、墓地が道の西と書かれているのは今の道が付け替えられてもので、旧道は墓地の東を通っていたとする考え
 でこの地図を見直すと、移設ではなく元の位置のままとしても良い。
 この説を裏付ける根拠として、墓地の通路を塞ぐような位置に置かれる。この地点から南東に道跡の様に見える空間
 が墓地端まで続いている。又その南東端の東側に「重修桜堤碑(ちょうしゅうさくらつつみのひ)」が建っており、
 道と川の間の堤に立っていて相応しく、道跡として良いのではないか。(GoogleMapの航空写真で良く見える。)
 結論として、当道標は移設無しとする。その結果「左 おきしま」も恩貴島への最短経路を示し不都合はない。)
(当地点は大正12(1923)年9月に出来た大阪市電春日出車庫の敷地内に成っていた様に思われ(昭和22地図)、この時点
 で道の機能は無くなっていたと出来る。依って建設年はそれ以前となるでしょう。)
(伝法に向かい春日出北から恩貴島橋で正連寺川を越えると「此花区伝法6の道標」
 更に北へ進むと「此花区伝法5の道標」があり明治期の尼崎街道に出会う。)

写真iimg7093 写真iimg7094 写真iimg7080
【1.墓地入口を南東に望む 【2.墓地入口を北に望む 【3.道標を北西に望む
 右(南東)桜島線へ  奥(北)北港線へ  右下の墓の榊の左に
 突当り右が候補地1】  道標は門を入り東へ】  当道標が見える】

写真iimg7041 写真iimg7064 写真iimg7058
【4.道標を北東に望む 【5.道標南西面拡大 【6.道標東面拡大
 なぜこんな所に  「左、おきしま」  「右、でんぼ、あま」
 通路を塞ぐように立つ】  とある】  と読める】

写真iimg7050 写真iimg7069 写真iimg7061
【7.道標を見下す 【8.道標南西面下部 【9.道標東面下部
 左右の面は平滑  「おきしま」  「でんぼ」伝法
 直角でなく135度程】  「恩貴島」とした】  「あま」尼崎とした】

写真iimg7040
【10.墓地南東部の重修桜堤碑を北に望む
 左へ旧道の跡が続き60mで道標に至り
 左に折れると墓地入口へと続く】

写真himg2312
【11.大阪市福島区の道標】
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