26.堺市美原区菅生天満宮の降誕地碑(道標ではない)

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堺市美原区菅生178−1 本殿南、石鳥居の東柱の北5mに南を正面に建つ
蒲鉾型角柱 107x24.5x22p(頂高3p)
N34.527003 E135.561683


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南面
┌─――――――――――――――┐
│天満宮降誕地         │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│ 発起 泉州堺        │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│ 神南邊大道心        │
└―――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載)
(東面に「発起泉州堺」、西面に「神南邊大道心」とあるので、本人が建てたものでは無い。紀年銘も無い。
 「天満宮降誕地」の意味も不明であるが、菅生天満宮を表すものであろう。
  尚、国立公文書館の『河内名所図会』4巻23コマに「菅生神社」が載り、説明中に「土人菅神(かんじん)
 降誕の地といふは謬(あやまり)也」とし、図中の説明には「此境内清水池の中に菅神誕生碑を建しハ不審
 (いぶかし)き事なり、菅神降誕の所は京師高辻西洞院菅大臣社の地なり拾芥抄に見えたり」としている。
 この本は享和元(1801)年の出版らしく、この時既に当石標と同様のものが池中にあったらしいがこの石で
 無い事は確かである。この石は文政10(1827)年頃から、天保12(1841)年迄の建設らしい。)
 『今昔マップ on the web』明治の地図から地形は変わらないと思うが、階段前から移設とある。)
(西2q程、神南邊の建てた「藤井寺市葛井寺の道標」には「道明寺」の案内がある。)
(同じく、境内に神南邊の建てた「百度石」を見てみましょう。)

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【1.菅生天満宮を北東に望む 【2.石標を北に望む 【3.石標を北東に望む
 右は三ツ辻の交差点  後ろが拝殿か  西面に「神南邊大道心」
 神門を左に登る】  東(右)面に発起】  が見える、発起人であろう】

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【4.石標東面拡大 【5.石標南面拡大 【6.石標西面拡大
 「神南邊大道心」  「天満宮降誕地」  「発起泉州堺」
 自筆であろうか】  意味不明である】  と読める】

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【7.菅生神社解説板】

 読みを載せて置きます

 菅生(すごう)神社 本殿 堺市指定有形文化財 平成18(2006)年4月20日指定

 菅生神社は平安時代に編纂された延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)に記載のある式内社です。
中世には菅原道真を祀るようになり、菅生天満宮ないし天神社と称するよう
になります。
 境内地には神門、拝殿、幣殿(へいでん)、本殿の他、神宮寺であった高松山天門寺の本堂
(現在は境内社恵比寿神社本殿)の他、道真ゆかりの菅澤(すがさわ)等が現在も伝わります。
 本殿は一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)で正面に軒唐破風(のきからはふう)をつけ、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)としています。
一間社春日造としては規模の大きなもので、正面柱間は7尺(2.1m)に及びます。
建築年代は高欄擬宝珠(こうらんぎぼし)に「河州丹南郡 野田庄天神 御寶前 万治四年辛丑季
三月吉祥日」の銘があり、また琵琶板(びわいた)・軒桁(のきげた)などからも同じ年号の墨書(ぼくしょ)が見られる
ことから、万治4年(1661)に建築されたことがわかります。虹梁(こうりょうや)実肘木(さねひじき)など
の細部も17世紀の様式をよくしめしており大変貴重です。

 堺市
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