37.住吉区墨江地蔵寺門前の百度石(道標ではない)

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大阪市住吉区上住吉2−11−21 地蔵寺門前に東を正面に建つ
尖頭型角柱 139x31.5x29p(頂高8p)
N34.609892 E135.494262


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東面
┌─―――――――――――――┐
│五大力           │
└――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――┐
│ 願主 神南邊隆光     │
└――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――┐
│百度石           │
└――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――┐
│ 文政二卯年四月      │
└――――――――――――――┘
(「卯」は「亜」の下「一」がないに似る)


(『隆光と関係石造物』月山渉、2012年では、q蜊10)
(文政二(己卯)年四月1日とすると、西暦1819年4月24日土曜日となる。この年閏四月あり。)
(南面の紀年銘にある「卯」とした字は、「亜」の下の「一」を取ったような字として刻まれているが、時折
 見かける字である。『大字典』講談社よると六画として、「ウ、イウ」と読み、日の入る時の義とする。
 「卯」とは別。としているが、ここでは明らかに十二支を示すと思いこの字にした。)
(北面には「願主 神南邊隆光」とあり本人が書いたものと思う。)
(東面の「五大力」はweb上で「五大力尊」は不動明王(中央)、大威徳明王(西方)、軍荼利明王(南方)、
 降三世明王(東方)、金剛夜叉明王(北方)の五大明王の総称」とあり、これらを祀った寺等を示す石碑で
 あろうと思うが、当墨江地蔵寺がそれかどうかは知らない。
  この墨江地蔵寺を大阪市のhpで見ると「天台宗の寺院である。もとは少し離れた殿辻の字松本にあったが、
 明治18(1885)年に現在地に移転したという。」からすると寺と共に移設されたと思われる。
  上記書に、「元住吉大社の神宮寺にあった。」とする。大阪市のhpに「住吉大社の神宮寺は、境内に寺地
 のあった新羅寺…津守寺等複数存在した。神宮寺の史料は…地蔵寺に、版木を中心とした関係史料が伝来し
 た…版木は、…五大力菩薩に関連する3枚…」とあるので、この百度石等もその一つではないか。
  明治の地図『今昔マップ on the web』で、殿辻は500m程南の熊野街道沿いの集落と見える。)
(南10mに「住吉区墨江1の道標」があり、子安地蔵尊を案内しており、
 当墨江地蔵寺を子安地蔵尊として元位置を論じているが、上記墨江地蔵寺移設を考慮していませんでした。
 ここに挙げるのも不適切かとおもいますが、寺とは関係なく地蔵はここにあったと考えます。)
(同じ紀年を持つ「堺市戎之町東菅原神社の百度石」と同時建立か。)

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【1.地蔵寺を北西に望む 【2.地蔵寺を南西に望む 【3.百度石を南西に望む
 木の下に当百度石  右「五大力」当百度石  左「五大力」が当百度石
 左端「墨江1の道標」】  裏側に「百度石」とある】  手前「子安地蔵尊」とする】

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【4.北面上部の拡大 【5.北面「神南邊」拡大 【6.北面「邊」の拡大
 「願主」  「神南邊…」  「邊」も非常に分かり難い
 とした】  とした】  手で触ってみた】

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【7.百度石南面上部 【8.百度石南面 【9.北面下部の拡大
 「文政二卯」  「文政二卯年四月」  「隆光」は
 とした】  と読める】  間違いないであろう】

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