43.右京区御室大内仁和寺裏手の標示石(道標ではない)

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京都市右京区御室大内御室 写し八十八ヶ所一番霊仙寺南東、受付南前に北を正面に建つ
尖頭形角柱 115x27.5x27.5p(頂高6p)
N35.030320 E135.711346


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北面
┌――――――――――――――――┐
│此西北金剛界          │
└――――――――――――――――┘

西面
┌―─――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南面
┌―─――――――――――――――┐
│文政十三年庚寅十一月      │
└――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――┐
│       神南邉庵     │
│發起 泉州堺          │
│       大道心隆光    │
└――――――――――――――――┘


(文政十三(庚寅)年十一月1日なら、西暦1830年12月15日水曜日となる。文政13年は12月9日迄。)
(『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、2012年発行では、京2)
(紀年の手掛かりとなる『神南辺隆光と関係石造物』に、地震が文政十三年七月二日とあり、再建が天保
 三年となっており、神南邊が発起をした年として十三年十一月に矛盾はないが、わずか4ヶ月後となり、
 再建完成を待たずにこの石を建てるのは何かおかしく感じる。数年後の完成の後に、発起した日を遡っ
 て刻んだものであろうか。
 堺市史七巻にある「神南邊の功績による、嵯峨御所より錫杖の下賜が天保七年(指吸重喜日記)」との
 日付を見れば、再建に協力した、或いはしようとした(発起)年はそれより以前となり、矛盾はない。)
(別項の「邊」「邉」問題に関しては、楷書で明らかに「邉」としており、発起とあり本人の書いたもの
 では無さそうに思う。「庵」が付き、「大道心」その上「隆光」までフル装備である。)
(神南邊関連の石造物にあっては最北に当る一群と思われる。丁石ではないが、八十八ヶ所の先頭の石と
 して紀年銘が書かれているものか。次は五十番過ぎの見晴らしの良い位置に「仁和寺裏手の標示石2」
 最後の「仁和寺裏手の標示石3」は八十八番ではなく、霊場出口に置かれる。
 他も合わせ、三基共に「金剛界」「胎蔵界」の方向を示してるので、一種の境界石とするなら、本来と
 は位置がずれているかも知れない。)

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【1.石碑を南西に望む 【2.石碑を西に望む 【3.石碑を東に望む
 常夜灯右に当石碑  奥(西)八十八ヶ所へ  石碑は中央黒い石
 八十八ヶ所は建物右奥へ】  当石碑は右木に隠れる】  右奥にここへの入口】

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【4.石碑を南西に望む 【5.石碑西面の拡大 【6.石碑東面上部拡大
 左面に発起人の名前  「文政十三年庚寅」  「發起」
 右に「西北金剛界」】  十一月と続く】  と読める】

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【7.石碑東面中部拡大 【8.石碑東面下部拡大 【9.石碑東面「邉」部
 「泉州堺」は  「神南邉庵」とした  楷書とみて『大字典』は
 発起人の住所か】  「大道心隆光」】  「邉」は「邊」の略字】

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