113.神戸市北区森林植物園の境界石、山田/神戸(道標では無い)

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神戸市北区山田町上谷上字長尾1−2 森林植物園、争論松説明板北側
(この他、4基ある。)
角柱 35x16x12p
N34.736306 E135.173375


写真kimg2726

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写真kimg2723

写真kimg2724

南東面
┌─――――――――――――――┐
│神戸(区)          │
└―――――――――――――――┘
((区)、は未確認)

北東面
┌─――――――――――――――┐
│不明             │
└―――――――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――――――┐
│山田             │
└―――――――――――――――┘

南西面
┌─――――――――――――――┐
│なし             │
└―――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載)
(当石標の特徴としては、数字がなく、「山田」が書かれている点である。北東面に小さい石が接して建つ為、ここに
 数字が刻まれている可能性はある。もしあれば「三六」なら数字が連続する事になるが。
  上面には浅くではあるが十字が刻まれており、長い線が南東・北西方向に向いている。この線は道の方向と一致し
 ている様に見えるが、「山田」「神戸」の書かれる面と直行しており、境界線を示すものではない気がする。何故な
 ら、この「山田」と書かれた面が山田村方面にあり「神戸」が当時の神戸区の方を向いていると思われるからです。)
(その他の説明は1.神戸市北区森林植物園の境界石#53を参照下さい。
 2.#47
 3.#37
 4.山田/神戸(当石標)
 5.#35
 が有ります。)
(北東側に建つ石について、角柱31x14x16pで、三面には何も書かれておらず、接している面は不明です。
 太さが異なる点で、当石の一部では無いでしょう。)

写真kimg2720 写真simg0149 写真simg0150
【1.石標を北東に望む 【2.石標を南東に望む 【3.通り過ぎて「三五」から
 左北西から登って来て  右側が当石標  案内板を北東に望む
 手前右にほぼ平坦】  左の石は不明】  30m程度の距離がある】

写真kimg2739 写真kimg2740 写真kimg2712
【4.石標北西面を見下す 【5.石標南東面拡大 【6.沢の池の登り口を
 手前面「山田」のみ  「神戸」までは読める  西に見る
 上面「+」があるか】  下部に「区」とあるか】  突当り木柵を左へ】

写真gimg3367 写真kimg2773
【7.神戸市北区南部の道標】 【8.森林植物園の境界石】

写真kimg2721 写真simg0148
【9.争論の松の説明板の 【10.説明板の西側に二本
 拡大、影部分を補正  のやや大きい松があるが
 してある】  これが争論松かは知らない】

 「争論(そうろん)の松について」
  この松は中一里山と奥一里山との
 境界に植えたもので、樹齢約150年と
 推定されます。
  特に中一里山は入会権(一定地区の住
 民が一定の山林原野を共同で使う権利)のある
 神戸側と山田側との争いが激しく、慶
 長9年から明治9年の役300年間に
 わたって続けられた。

 「一里山の名前の由来」
  有馬街道(天王谷道)と大師道
 (再度道)の山麓を起点として
 一里毎に塚が造られ、この二
 街道の標石を見通した線を
 境界として、南から口一里山
 中一里山、奥一里山と名付け
 塚に茂る松を、一里松と呼ん
 でいたといわれている。

 「当寺の中一里山境界図(大蔵省地図参照)」
  【省略】

 ●各一里山の基点は・・・【省略】
 ●入会権については・・・【省略】
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