和歌山軌道線・南海和歌山軌道線の車両を説明します。


30形

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30形32 和歌山市駅前

開業当時の1形1~21号車(35人乗)を改造した32形21両のうち10両を戦後30形に改番し残り10両を60形に改番(1両は廃車)。
30形の10両は昭和21~22年に川崎車両にて木造車体を新造した単車で正面切妻形、ヘッドライトは額に付けられ、扉は2枚折り戸で窓は上段固定下段上昇式でD8Dの配置でした。 国鉄63系の様な顔をしていたが2000形や700形と交代し昭和36年に廃車されました。

60形

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60形68 和歌山市駅前

60形も開業当時の1形を改造した32形を改番して10両を60形とし、昭和23から25年に富士車輌と広瀬車両で半鋼製車60~69としました。
昭和36年に4両が廃止され、3両の車体を100形に譲り、38~41年に残る3両も廃車となりました。

100形

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30形と旧・100形102 和歌山市駅前 

100形は大正14年に梅鉢鉄工所で5両(100~104)製造された木造単車で、100~102の3両が売却されず残りました。
窓はD1 6 1Dの配置で扉は以前は2枚引き戸で戸袋部に楕円窓があったが扉の2枚折り戸改造の際普通窓になった。
昭和35年にパンタグラフに付け替えられ、昭和37年には60形の車体と乗せ変えられましたが、昭和42年2月に廃車されました。
単車は足が遅いので海南方面には行かず、100形は市駅-東和歌山間に使用されることが多かったようでした。

200形(200~205)

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200形200 和歌山市駅前

電気軌道最初の低床ボギー車として昭和5年6月に200~202は田中車輌、203・204が大阪鉄工で製造され、 さらに昭和7年10月には205・206が田中車輌で増備された半鋼製の低床ボギー車でしたが、206号は昭和20年7月の空襲により焼失・廃車されました。
全長10.9mで主電動機は37.3kWx2の直接制御式、300形と共に長い間電気軌道の代表的存在でした。
窓はD9Dの配置で上段固定の下段上昇式、新造当初は乗降扉が引き戸で、この引き戸に歯車装置で連動する折りたたみステップが付いていたが、 開閉時に重く故障することが多かったため、昭和14年に撤去され折り戸式に改造されました。
昭和27~28年に照明が蛍光灯化され、昭和32~33年にパンタグラフが取り付けられました。

300形(301~306)

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300形302 和歌山市駅前

200形とほとんど同形式、同一性能であり301~304が昭和12年4月大阪鉄工で、305・306は昭和13年10月に田中車輌で製造されました。
その後昭和16年に同形式の増備を計画したが、諸般の事情で実現せず代替として南海大阪軌道線から500形が譲渡されました。
30・60・100・200形は車番が0から始まっていたが、300形からは1から始まっていました。
扉は当初より2枚折り戸式で、昭和28年蛍光灯化され昭和32年にはパンタグラフも取り付けられました。

500形(501~504)・(505・506)

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昭和16年に南海鉄道から譲り受けた軌道線電2形50~60(除・57)10両の車体と鉄道線用の台車・電動機を組み合わせる予定で 、昭和18年にまず501~504が天下茶屋工場で改造されました。
505・506は車体を広瀬車輌で半鋼製に改造し、昭和24年に自社関戸工場にて組立完成しました。
500形はブリル27-GE-1の台車を履いた高床ボギー車で運転台と客室間にも段があり、 窓はD9D配置で上段固定、下段上昇式に改造され、二重屋根の特徴ある外観を持っておりました。
背が高いため、トンネルのある海南方面には行かず、もっぱら新和歌浦行きや車庫前折り返しに使用されておりました。

1000形(1001~1003)

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戦後初めて新造された半鋼製低床ボギー車で、1001~1003は昭和29年に東洋工機で製造され、最初の中央車掌台方式(片側2扉非対称型)を採用、 窓は1D1 3 1D5で上段ゴム支持下段上昇式 でした。
1001~1003は屋根保帆布張りで最初のドアエンジン付きで、パンタグラフもこの型式が最初でした。

1000型(1004~1006)

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1004~1006は昭和30年東洋工機で製造され、鋼板張り上げ屋根のため1001~1003と比べ外形は異なるが、性能的にはほとんど同一した。
番号表示はこれまでの小判形や長方形のプレートを貼りつけていたが、1000形後期の1004~は大型の切り抜き数字を貼りつけておりました。
後に、張り上げ屋根の為か汚れが目立つので、雨樋を付ける改造をされました。

300型(311)

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戦災焼失の206号の台車・電動機を使用し、昭和35年にナニワ工機で車体を新造した初の全金属製大型ボギー車でした。
車長を12.3mと長くしたため曲線通過時の偏きを小さくするよう両端を絞っており、ボギー中心距離を出来るだけ長くして路面電車特有のヨーイング減少に努めておりました。
車体形状の基本は、正面窓は中央が大きい3枚窓、2扉式中央車掌台方式、ダブルヘッドライトで室内はアルミデコラ張り、間接式床下シャ断機等新しい設計が盛り込まれておりました。

2000形(2001~2004)

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ラッシュアワーの混雑を能率良くさばくべく計画され、昭和35年に東洋工機で新造された全金属製低床式2両連接車でした。
車体は311号と同じ考えの基に設計したので見付はほとんど変わりなく、制御器は主電動機(30kWX4)の関係上当線唯一の間接非自動制御を採用し、空気制動機も700形と同じSME方式を採用していました。
奇数車は市駅方で制動装置関連機器が取り付けられ、偶数車は海南方で電気関係の機器が取り付けられておりました。
ラッシュ時に海南線で活躍しているが、閑散時や休日は車庫で休んでいることが多かったようでした。

700形(701~710)・(711~713)

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4輪車淘汰の目的をもって三重交通神都線廃線の際に13両を譲り受け改造整備を行ったもので、車体寸法や使用機器等は200形・300形と酷似しており何かと好都合であった。
旧番は701~710が三重交通神都線の581~590で田中車輌製、711~713が516、501・502で日本車輌製であった。
改造及び更新修理はまず710号を自社で施工し、これにならって701~709・711~713の順でナニワ工機(施工は同社及び大阪車輌)で施工されました。
主電動機は日立37.3kWx2の直接制御で、ブレーキ装置は三重交通の機器を流用したためSMEとなっていた。
なお本形式は譲受改造車であったが大規模な改造によりダブルヘッドライト、2枚引き戸ドアエンジン・NEC式室内蛍光灯等新しい設計の導入に努めていました。
窓は701~704が1D10D1で側面にリベットが多く、705~710が1D8D1で707~710は前面雨樋がR付きでした。

321形(321~327)

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南海電鉄と合併後の昭和38年に60形4輪車及び500形木造車を淘汰するために日立製作所で新造した全金属製ボギー車で、原形は311号の流れを汲んでおり、上クリーム、下グリーンの金太郎塗りで登場。
装備は主電動機38kWx2で直接制御(床下シャ断機付)、SM-3形空気ブレーキ等路面電車として実用的に充分な標準装備であった。
台車は日立のオールコイルバネ式を採用しているほか、車体正面窓はヒンジ式として通風効果を考え、室内内張りは縞模様のデコラ張りとし、 蛍光灯はNEC式40Wx8とするなどいろいろと新機軸を盛り込んで設計されていました。
廃線後324のみ松山市の伊予鉄道に唯一譲渡され81としてワンマン化改造され活躍したが、冷房化されることなく昭和62年に廃車されました。
321は岡公園で322は海南市黒江室山団地内で保存されています。

251形(251~254)

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251形は最後の増備車として秋田市交通部の路面電車廃線後に61~64号を譲り受け、昭和41年に大阪車両で車体の先端を絞りダブルヘッドライトにする等の改造整備したもので、 生まれは昭和26年日立製作所でした。
この車両も南海電鉄に合併してからの物なので、上半分がクリーム、下がグリーンの金太郎塗りとなっていました。
当初は321形の追加増備も計画されていたようでしたが、この譲渡車で済まされ、この投入によって101~102の4輪車及び62号(4輪の救援車)が廃止され和歌山軌道線から完全に4輪車が追放されました。

花電車

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30形に装飾を施した花電車

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1形散水車に装飾を施した花電車

毎年5月の商工祭になると花電車が走り、子供の頃は花電車が来たらたいへん嬉しかった記憶があります。

写真は堺市在住の小林庄三様から提供して頂きました。