前略 辛口屋さま

 こんにちは。《辛口》ウォッチャーの鶸俣昇(ひわまた・のぼる)です。

 ワールドカップ韓日大会が終わり、いつの間にか一ヶ月以上が過ぎま した。ワールドカップの「総括」など偉そうなことをするほどサッカー 通ではないので、その当時サッカーそのものとは違うところで感じたこ とを書き残しておきます。二ヶ月前のテキストを今さら引っ張り出すの もどうかと思うけれど、当時はあまり時間もなくて書き上げられなかっ たので。

祝・日本初勝利

 現在、西暦2002年6月10日。サッカーの日本代表チームが韓日ワール ドカップ・一次リーグ、対ロシア戦で日本サッカー史上初めての勝利を 記録した。先日(4日)のベルギー戦での引き分けによる勝ち点1獲得に続 く快挙。

 日本の躍進を見ると思い出すのが(思い出したくはないのだが)《辛 口評論家》改め《辛口屋》だ。

 「《辛口屋》であり続けるために《辛口》 を吐き続けるのだろう」と書いたが、そのためなのかどうなのか、 この人たちは時時変なことを言う。日本が初勝利をあげる直前、ある 《辛口屋》は、こんなことを言っていた(これはうろ覚えなので、実際 の発言と食い違っていたら撤回します)。

 その人いわく、「ワールドカップは世界最大の大会だが世界最高の大 会ではないと思っていた」。なぜかというと、今やヨーロッパの強豪ク ラブは各国の代表クラスを選りすぐっているし年に何度か集まるだけの 代表チームより練習の密度が濃い、だからヨーロッパチャンピオンズリー グなどの方がレベルは高い。「だから大して興味もなくなっていた。が、 フランスやイタリアの敗戦といった番狂わせを見て考えを改めた」と、 その人は言うのだった。

 これについては後で触れるが、フランス やイタリアが敗れたからといって俄然興味を持つ必要はない。番狂わせ が面白いのは確かだが、世界最高レベルでの番狂わせの方がもっと面白 い筈だ。何も唐突にこっちを向いてくれなくてもぼくたちは全然かまわ ない。おめーは「世界最高のサッカー」だけ見てろよ。

 これは他にも変なことを言っているに違いない。《辛口》ウォッチャー 出動である。

もっと代表チームを罵倒してくれ

 《辛口屋》の言動を、ぼくは忠実に追いかけているわけではない。む しろ避けている。お金を出せば彼らの本は手に入るし、スポーツ新聞や スポーツ雑誌にも彼らの文章は出ているのだろうが、お金がもったいな い。特にワールドカップ直前に彼らがどんなことを言っていたかは知ら ない。こちらの知らぬ間に悔い改めて教義信条を鞍替えしているのかも 知れない。だからこれから書くことはものすごい勘違い、大誤解、名誉 毀損ものかもしれない。

 まぁそんなことはないだろうと楽観して書くのだが、日本対ロシア戦 の翌日、わくわくしながらスポーツ紙を二紙ばかり購入してみた。

 ところが、つまらないのである。いつもの《辛口》と様子が違うので ある。

 日本が勝ったのだから、サッカー関係者なら誰だってうれしいに違い ない。ある人は「選手全員に、トルシエ監督に感謝したい」とも言った。 だがしかし、《辛口屋》がこの風潮に迎合してはいけないだろう。理由・ 動機はどうあれ、彼ら《辛口屋》は一貫して日本代表を、代表チームの 監督を、日本サッカー協会を批判し続けてきた筈だ。他の点ではともか くこの一点において彼らはこの上もなく首尾一貫していた筈だ。「こん なサッカーでは世界に勝てない、通用しない」「こんな戦術は時代遅れ。 ヨーロッパ強豪のシステムを見習え」「監督の采配に疑問」と言い続け てきた筈だ。今日までのところ日本はワールドカップ本大会で2試合闘 い1勝1引き分けという成績を挙げたが、これは彼らの主張に反している。 そのことを彼らはどう考えているのか。自分の主張が間違っていたと認 めるなら、謝罪くらいしてみせて欲しい。まだ間違っていないと思うの なら、「こんなサッカーではダメだ、世界と闘えない」と論証してみせ て欲しい。それくらいやるのが言論人のオキテではないか( 彼らが言論人ならば、だが)。本気で、強い信 念のもとに《辛口》を続けてきたのなら、この事態に対してきちんとオ トシマエをつけてみせて欲しい。

 日本はロシアに勝ったが、問題が全くなかったわけではない。ミスを まったく犯さなかったわけではない。批判すべきところはある筈だ。 《辛口》を振舞うだけの材料は揃っていた筈だ。実際には、彼ら《辛口 屋》は過去の自分の言動などなかったかのように、知らん顔で日本代表 を誉め称えている。

 ロシア戦勝利に際して、《辛口屋》のA氏(仮名)はほぼ手放しの満 点評価であった。ただ一点、「フラットスリーを捨て、これまでにない 現実的な守備戦術をとったことが偉い」と言っている。既に述べたよう にぼくは《辛口屋》を常に追跡調査しているわけではないので、A氏が 過去「フラットスリー」についてどんなことを言ってきたか知らない。 が、A氏は一年前のコンフェデレーションズカップで「小野の左サイド は機能しない」と言った。対ロシア戦ではどうだったのか、言ってみせ てくれ。「勝ったからいいが、修正が必要」と言ってくれ。そう、一年 前は「日本はホームでなら相手の調子次第でいい試合ができる」と言っ ていた。ホームの利を差し引いて、この試合の出来はどうだったのか言っ てみせてくれ。勝ったのは「相手の調子が悪かったから」じゃないのか。 どうなんだ、え?

 《辛口》のもうひとりの雄、B氏(仮名)は、「まだ喜ぶな」とファ ンを叱咤した。「一勝しただけで何も決まったわけではない。決勝トー ナメント進出が約束されたわけでもない」と、すごくすご〜く当た り前のことを、それが「これを言えるのは《辛口》ならでは」とでもい うかのような調子でぶち上げていた。しかし、おめーが言うべき ことはそんなことじゃないんじゃないのか、え? 「こんなサッカーで は世界には通用しない」といつもの調子でなぜ言わない。それでこそ真 の《辛口》ではないのか。

 穿った見方をすれば、「これまでの《辛口》は間違いでした」と言っ ていないということは、《辛口屋》は考えを変えておらず、いつか日本 代表がミスを犯すのを待ち構えているのだと考えることもできる。

辛口ウォッチ

 6月4日対ベルギー戦で日本はワールドカップ本大会四試合めにして初 の勝ち点1を獲得したのだが、その翌日にA氏いわく、

「厳しすぎると文句を言われながらも叱咤激励を続けてきた甲斐があった」

だって。日本代表は自分のおかげで強くなったとでも言いたいかのよう である。あんたが一年前批判した「小野の左サイド」を代表監督は固執 して使い続けたのだが、叱咤激励はまったく通じていないのではないか。

 続けて「韓国がいい形で勝ったことを考えると、勝ち点1では満足で きない」とおっしゃる。この辺の論理が現実から遊離している。共催と いえどもライバル国だから、そこよりはいい成績、いい勝ち方をして世 界への印象を強めたいという気持は判る。でも、勝負の世界というのは 相手があってのことで、経緯も結果もすべては相対的なものでしかない。 まして韓国も日本も別別のグループで闘っている。比較しても意味がな い、比較のしようがないと考えるのが常識ではないだろうか。

 心情的には「韓国が勝ったんだから、日本も3対1くらいで勝ちたかっ たぜ」といった気持もあるだろうが、日本対ベルギー戦を語る場でそん なことを言っても意味がないことくらい、A氏は判らないのだろうか。

 6月14日、対チュニジア戦。ロシア戦に続いて勝利し、十六強進出を 決めた一戦だった。

 翌日、A氏はもはや《辛口屋》であることを捨てた。中田英寿のゴー ルに涙し鈴木の健闘を手放しで褒め、まるで問題点などひとつもないよ うな「論評」ぶりである。確かに日本代表は勝った。一次リーグで二勝 一分とし、十六強進出を果たした。しかし、《辛口屋》連中が常常言っ てきたように世界レベルに照らして本当に満足できる試合ぶりだったの か。《辛口屋》が斬るべきはそういう視点からではないのか。いくら長 年自分なりに日本サッカーの発展に寄与してきたからといって(その自 負が彼をして《辛口屋》たらしめてきた、と、これは本人が言っている ことだ)、一次リーグ突破くらいで涙を流して喜んでいていいのか。

 最後に負け惜しみのように「今回の実績と周囲の期待が、この先の代 表に対してわたし以上に《辛口》を振舞うことになる」と言っている。 その方がよい。そうしてくれ。もうあんたは口をつぐんでくれ。

 B氏はB氏で、相変わらず莫迦なことを言っている。

 まず、「ワールドカップ(スペイン語では女性名詞。イタリア語でも) が地元びいきであることは判っていた」と、誰でも知っていることを言 う。サッカーに興味がない人は知らないかも知れないが、この人、そう いう人に向けて書いているつもりらしいことが窺える。次に、そのワー ルドカップをサッカーの女神に昇格させて、日本代表チームの活躍を 「女神に特別に愛されていなければあり得ないことだ」と言う。優勝候 補といわれたいくつかの国よりもいい成績を上げたからだと言う。しか も「女神が日本を偏愛したせいで、フランスとアルゼンチンは一次リー グで敗退した」とまで言う。

 気は確かなのだろうか、この人。戦前の自分の予想を上回って日本が 活躍したものだから興奮のあまりおかしくなったのではないか。あるい は自分の《辛口評論》が外れたことを覆い隠すための詭弁か。それにし ても、「サッカーの神」ということば遣いをする人はサッカージャーナ リストにも見かけるが、ワールドカップ(大会でなくて、優勝チームに 授与されるカップの方)を神扱いするのはあまり聞かない。

 どんな強豪チームであれ、一次リーグの組分けや大会に入ってからの 精神的肉体的状況などによって、楽勝もすれば苦戦もする。同じように、 日本のような中堅チームだって、調子と戦術的工夫次第で一次リーグを 突破できる(もちろん、「ホームの利」は見逃せない)。少なくとも今 の日本はそのくらいの実力を持っている。B氏は日本が一次リーグでイ タリアを上回る勝ち点、得点を挙げたことをさも不思議そうに、女神の 偏愛のせいのように書いているが、すべては相対的なものだから、そう いうことが起こったっていっこうに不思議ではない。別に日本対イタリ ア戦を三回やったわけではないのだ。

 最後に、「監督もチームも、もはや大会前の彼、彼らではなくなった」 と言っている。ほんとうに、莫迦か、こいつは。選手もチームも監督も、 大会を通じて変化し進化するというごく当たり前のことを、こいつはサッ カーに関する記事や文章を書いていてまったく知らなかったとでも言う のだろうか。

 最後の最後に「もはや何が起こってもおかしくない」とつけ足してい るが、これはこれまでの《辛口評論》が覆されたことに対するいいわけ であり予防線であろう。

ワールドカップは世界最高の大会ではないのか

 「ワールドカップは世界最大の大会だが世界最 高の大会ではないと思っていた」という発言だが、これは、どうな のだろうか。

 ある面にのみ着目すればこれは「正しい」のだろう。すなわちその発 言者が言っているように、最高の個人技とよく練られたチーム戦術によ る優れた試合を見たいなら、ヨーロッパ各国のリーグ戦とヨーロッパチャ ンピオンズリーグの方がよいのだろう。しかし、もしそれだけに着目す るのだとしたら、この発言者たる《辛口屋》はサッカー(の面白さ)を でんでん判っていないと思う。

 ヨーロッパの各国リーグは、よそ者にとっては所詮ただのリーグであ り、せいぜい観て楽しむだけのものである。どんな国のどんなチームに せよ、よその国の人間には感情移入の限度がある。その国の人たち、そ の街の人たちにとっては格別の思い入れのある特別なチームであるとし ても、その思いまでよそ者が共有することはできない。そのチームが街 や人人と共に築いてきた歴史やら伝統やらをよその人間がわがものとす ることはできない。よそ者がある国の強豪チームを応援したりその華麗 な試合ぶりに感動したりすることは可能だが、それは地元の人間が愛情 を持って眺めたり肩入れしたりするのとは決定的に異なる。

 国家代表チームはそうではない。その国の人間なら誰もが好きなだけ 感情移入できるチームである。それも肯定・否定どんな思いをこめたっ ていい。世界各国の人間がそのようにして自国の代表を応援したり批判 したりして過ごす、選手もまた国家代表チームに選ばれた誇りとか祖国 の誇りとかを背負って試合に臨む。それがワールドカップというものな のではあるまいか。それが世界規模で行なわれる点で、ワールドカップ はやはり世界最高の大会なのではないだろうか。

 くだんの《辛口屋》は、日本国中が猫も杓子もサッカーに熱を上げて いる状態を見て、奇を衒うつもりで先のようなことを言ったのかも知れ ない。だとしたら、やはり、莫迦だ。この《辛口屋》の視点からは、た とえばアイルランド共和国のサッカーは見る価値なしということになる だろう。技術的戦術的に「世界最高レベル」ではないからだ。ベルギー だってそうなるだろう。でもサッカーを見る愉しみは「世界最高の技術」 「世界最高のプレイ」だけではあるまい。技術や戦術で劣るチームがい かに強豪を倒すか、いかに勝ち上がっていくかというのも魅力である筈 だ。その魅力に目を閉ざしていて、サッカー評論家だとかスポーツライ ターだとかをやっていられるのだろうか。

 辛口が過ぎて斜に構えざるを得ない――ワールドカップではしゃぐ姿 は見せられないだろうしな――のだろうけれど、愚かというしかない。

《辛口屋》=理想主義者?論

 見方によっては、《辛口屋》はばきばきの理想主義者であるに違いな い。理想のサッカーを夢見て果てない純情な人人なのに違いない。

 それは「日本のマスコミ、特にスポーツ分野のそれ」の鏡像とでも言 おうか。日本のスポーツジャーナリズム――と呼べるものは殆どないが、 一般にそうだと思われているモノ――が「勝てば手放しで喜び持ち上げ、 負けると絶望的に悲観し、叩きまくる。そうでなければ『惜敗』と慰め る」といういささかバランスを逸した報道しかできないから、こうした 《辛口》《小言》が成り立っている。他の記事が浮かれている中にこれ らがあると、人目を引くし、読者の心に引っかかる。

 そうした《辛口》《小言》を支えているのは、「日本サッカーかくあ るべし」という理想なのであろう。自分たちは理想と現実とのあまりに 大きい溝を見ている。だから、そんなことに気づかず浮かれている人た ちに「勝ったからって喜ぶんじゃない」と言わずにおれないわけである。 しかし、それにしてはこの人たちは自分の理想像を語らない。また、理 想を語るには現実を冷静に認識できていなければならないが、この人た ちに本当に現実は見えているのだろうか。

 たとえば、トルシエ監督の代名詞ともなった守備の戦術「フラットス リー」を、《辛口屋》連中はこぞってこきおろしたが、なぜダメなのか を論理的に説明したものは見たことがない(もちろん、最初に記したよ うにぼくは《辛口屋》の発言を逐一追っているわけではないからどこか で誰かが理論的根拠を述べているのかも知れないけれど)。世界の強豪 チームが採用している戦術は素晴らしいものかもしれない。でもそれを 無邪気に日本代表に採り入れて、それでうまく行く保証がどこにあるの か。あるいはどのようにすればそうしたシステムを日本代表に導入でき るのか、それが言えないのなら、現実が見えていないと言われても仕方 があるまい。湯浅健二は 「個の力で劣る日本人にとって悪いシステムではない」ときっぱり言っ ている。要は三人が一列に並んだ最終守備ラインの上げ下げだけでは守 備できるわけがないので、どこまでラインを保つか、いつラインを壊し てマンマーク守備に移行するかの「読み」が大切だというのだ。「世界 の強豪チームでこんな守備戦術をとっているところはどこにもない」な どという「理由」に比べて、なんと明快で説得力があることか。

 現実を見るとは、たとえばそういうことだろう。そしてワールドカッ プ本大会で、日本代表の守備陣はそれができるようになった。そうしたら 《辛口屋》A氏は「フラットスリーを捨てて、現実的な守備ができるよ うになった」と持ち上げた。しかしそれなら四年前から「ラインブレイ クのタイミングに気をつけろ」と言っていればよくて、なにもフラット スリーそのものを非難する必要はないわけである。

 理想主義(者)。美しい、いいことばである。ぼくも幼い頃はそうだっ たような気がする。でも今はうんざりだ。現実を直視できない人間の理 想なんて絵空事でしかないし、そんな人間に理想など語れる筈はない。 現実を見ることができない者の理想は必然的にどんどん現実から遊離し て尖鋭的になる。そうでなければ、B氏のように神秘的なことばの靄に わが身を隠すしかなくなる。

 《辛口屋》は理想主義者なのかも知れない。営業的見地からでなく、 純粋な理想主義者なのかも知れない。しかし、日本の「スポーツジャー ナリズム」が現実を冷静に見ることができず情緒的な「論評」しかでき ないことのちょうど裏返しで、現実を冷静に見ることができないために 先鋭的な「理想」しか語れないのが《辛口屋》なのだ。

 《辛口屋》さま。目障りだから、どこかに消えてくれ。

(2002.08.18)

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