ランダムアクセス 2003

今年もいろいろ読んだ

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価格は購入時現在のものであり、原則として税抜きです。

1月

『退職刑事 1』 都筑道夫、創元推理文庫、ISBN4-488-43402-9600円

 正月はミステリーでも読んでのほほんと過ごそう。といっても、ぼく には推理小説を読む「能力」はないけれど。

 能力というのは大げさだが、ある種の「力」が必要なのは間違いない と思う。すなわち、謎を謎として楽しむ力、その謎を解き明かすための 論理を働かせる力である。どちらもぼくには乏しい。魅力的な謎が提示 されても「ああ、不思議だな」「面白いな」と思うので終わってしまう。 また、推理小説的論理を働かせることができない。推理小説の論理とは 日常世界のそれともコンピューター世界のそれとも異なるし、記号論理 学とも異なる。言ってみれば「論理的解釈(の連鎖)」というもので、論 理学とはあまり関係がない。そもそもよく言われることだが推理小説の 「謎と論理」は現実世界のそれとはあまり関係がなく、閉じた系の中で の謎であり論理でありそれを楽しむゲームである。そのことが鼻につい て楽しめない一時期があった。そんなわけで、推理小説探偵小説ミステ リーを読む時は、自ら謎解きをしようなどという思い上がりは持たず、 作者が提示する「謎」を不思議がり、作者がその「謎」をどのように説 き明かすかを楽しむに限る。

 てことで、2003年はまず都筑道夫から。退職刑事シリーズは初読。作 者が「謎と論理のエンタテインメント」に回帰しようと書き始めたもの らしい。推理小説の世界では古典的な安楽椅子探偵(アームチェ ア・ディテクティブ) もので……といった話は本書巻末のあと がきや解説に任せておこう。

 面白い。

 正直にいって、都筑道夫の作品のなかではメタな味のある作品かアク ロバティックな作品が好きだ。『猫の舌に釘を打て』や『誘拐作戦』、 『やぶにらみの時計』、はたまた『紙の罠』『悪意銀行』『片岡直次郎 のヤツ』などである。本格もの(いわゆるパズラー)では『七十五羽の 烏』などの物部太郎シリーズ、西園寺剛、だっけ、サイキックハンター もの、名前忘れたハードボイルド、あと怪談・ホラー……そういうもの が好きである。本格ものは面白いとは思うものの、さほど惹かれない。 何故なんだろうね。

(01/02)

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『退職刑事 2』 都筑道夫、創元推理文庫、ISBN4-488-43403-7580円

 立て続けに読む。

 面白いが、第一集よりは薄味になっている気がする。七篇収められて いるが、やや人工的な「謎」が多いように感じる。「四十分間の女」は 作者自身も第三者も高い評価を与えているそうだが、確かに「下り列車 を降りてから上り列車に乗るまでの四十分間に何をしていたのか」とい う「謎」に対しては論理的な解釈が与えられているけれど、その解釈を 真とするなら、別に終電に乗らなくてもいいじゃないか、という反証が 考えられる。

 ちなみに現実にこれのもとになった出来事があったらしく(ほんとう の「事実」というわけ)、確たる「事実」を説明するための論理に対し てこんな「反証」は二重に分が悪いけれど、でもそう思ってしまう。安 楽椅子探偵だからよけいにそう感じてしまうのかも知れない。

(01/04)

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『こびと殺人事件』 クレイグ・ライス、創元推理文庫、 ISBN4-488-24904-3660円

 正月はミステリーでも読んでのほほんと過ごそう・第三弾。

 何を隠そうクレイグ・ライスは大好きな小説家である。ユーモアミス テリーと括られるけれど、ミステリーとしてよりは単なる小説として面 白い。と言ったら怒られるだろうが。

 何が面白いといってお話を彩る、というよりはそれらの海の中にお話 がたゆたっているといっていいユーモア、エスプリ、ギャグ。それらの 中を泳ぎ回るヘレン、ジェイク、マローンの三人組(探偵役にして主役 は弁護士マローンなのだが、ぼくにとってはこの順番なのだ、どうして も)。以前、この物語世界はシカゴという大都市なしには成り立たない という文をどこかで読んだが、そうなのだろうなと思う。そして恐らく は1930〜40年代アメリカ合衆国という時代と。

 多くの人が言っていることだが、単なる笑い、生温い笑いではない。 単に苦い笑いでもなく単に乾いているのでもない。絶望の淵を覗き込ん だ後で、絶望を背負いながら辛くも踏みとどまっている人の笑い。現実 を直視できる人の、それでも現実を笑い飛ばす心意気。ユーモアとはそ ういうものだということがライスを読むと判る。

 これらの笑いが実はミスディレクションにもなっているというのが特 徴か。作者は笑いに紛らして「手がかり」を残していく。そして「真相」 を笑いに紛らせて隠してしまう。「ユーモアが散りばめられたミステ リー」ではなく「ユーモアなくしては成り立たないミステリー」という ことではあるまいか。

 あと二冊買い込んであるが、そいつらを読んだら、この愛すべき三人 組のデビュー作『時計は三時に止まる』から読み返してみよう。

(01/09)

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『第四の郵便配達夫』 クレイグ・ライス、創元推理文庫、 ISBN4-488-24901-9620円

 読み始めてあれっと思い、調べたら10年くらい前に読んだことが判明 したが、読み進めてもぜんぜん思い出さなかったなあ。印象が薄かった 筈はないのだが。別のことに気をとられていたか、その頃大事件でもあっ たかな。半分くらい進んでも思い出さない。ディテイルはちょっぴり思 い出したが、筋はダメだった。

 オーストラリアン・ビア・ハウンドの一連のギャグがおかしい。これ これ、これがクレイグ・ライスの味である。登場した時は「ひもじそう な、見るからに駄犬と知れる一匹の野良犬」(29ページ) なのに、あれよあれよという間に出世していくのがおかしい。繰り返し ギャグの好例だ。それから水疱瘡にまつまるヘレンとジェイクのやりと り。ほのぼのしつつ、おかしいといったらない。またこれを始めとする 無数の掛け合い。これがクレイグ・ライスの味なのだ。その点、これは ライスの代表作と言ったら言い過ぎだろうか。言い過ぎかも知れない。 しかしシリーズのほかの作品に見劣りしないほどギャグは冴えている。 笑いに《真実》を紛らせて隠してしまうのもいつものとおり。解決が弱 い(つまり、「謎と論理のエンタテインメント」としては)のもいつも のとおり。でもそんなことは大したことじゃない。こぼれるほどのギャ グとユーモアと、それを裏打ちする苦い世界観と、でもそこから雑草の ように芽吹く愛情があれば。あとウィスキーとタバコがあればいいのさ。

(01/17)

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『マローン殺し』 クレイグ・ライス、創元推理文庫、 ISBN4-488-24905-1680円

 クレイグ・ライスが創造した「名探偵」J・J・マローンものの短編集。 遥かサンフランシスコまで出かけたりして事件に巻き込まれあるいは自 ら飛込んだりして活躍するが、「ミステリー」ではなかろう。少なくと もクラシックな意味での。「謎」を解決する手がかりが必ずしも読者に 提示されている(厳密には文章中に記述されている)わけではないと思 うからだ(ぼくが見落としているだけかも知れないけれど)。作者の文 章力によって辛うじてミステリー風味が保たれているようにも思える。 といってももちろん、そのことを非難したり軽蔑したりする気はまった くない。それでいいのだ、クレイグ・ライスは、としみじみ思う。なに しろ久久のライス気分にあてられて正月以来ライ・ウィスキィを愛飲し ているくらいだ。

 10のお話は殆どマローンの一人舞台で、脇役として秘書のマギー(な かなかいい娘なんだ)が活躍したり、驚くべしフォン・フラナガン警部 もいつもの敵役を降りて相棒を務めたりしている。最後の作品でヘレン がちょっとだけ顔を出す。このヘレンがまたよい。

 「ほかになにか?」ヘレンは訊いた。
 「うん、監獄に入ってほしい。殺人の罪で」
 「ヒャッホー!」ヘレンはそういって電話を切った。(386ページ)
 (……それまでマローンと打合わせをしていたところに刑事が 踏み込んできた次の瞬間)
 ヘレンはマローンを見つめた。涙が頬をつたっている。(393ページ)

 (警察に連行され身許がばれた後、フォン・フラナガンが怒り の電話をかけてくる)
 「彼女は誤認逮捕で市当局を訴えるだろうな」
 フォン・フラナガンはうめいた。「そんな必要はないだろ。彼女はい ま、うちの部下たちとクラップスゲームをやってる」(394ページ)

 これがヘレンの素晴らしいところであり、クレイグ・ライスの「ユー モア作家の証明」である。

(01/24)

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『コラムの逆襲』 小林信彦、新潮社、ISBN4-10-331825-21600円

 中日新聞にもう13年ほども連載されているコラムの、1999年から2002 年までの分をまとめたものである。著者も「あとがき」で「小さなライ フワークみたいになってしまった」と言っている。小説家小林信彦にとっ ては不本意かも知れないが、見巧者小林信彦の仕事として(あるいは ジャーナリストの仕事として)忘れられてはならないものだろう。

 小林信彦のコラムは、凄くよい。というより、二重三重の意味で勉強 になる。 ぼくは最近の映画(日本のでも、アメリカのでも)を見る気がせずずっと ご無沙汰なのだが、この本を読んで見たくなった映画が何本もあった。 著者の勧める落語も聴きたくなるし、テレビドラマも面白く思えてくる。 これは誰にでもできることではなく、数多くの映画や芝居を長い間観て きたという裏打ちがあってこそである。また、コラムという短い文章を、 書きっ放しで済ませるのでなくいかに注意深く書いているか、まとめて 読むとよく判る(単行本化に際して手を入れたそうだが)。文章の書き 方を学ぶこともできる。

 そういうコラムである。読むべし。

(01/26)

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2月

『サッカーの戦術と技術1, 2』  チャールズ・ヒューズ・著(鈴木泰子・訳)、日刊スポーツ出版社、 ISBN4-8172-0068-5, 4-8172-0073-1各981円

 サッカーの技術と個人、チームの戦術を判りやすく簡明に解説する名 著。指導者向けの手引書なのだが、よい。国産の同種の書も何冊か読ん でいるが、どれも「こうするべき」「こうするのがよい」とはいうもの の、なぜかは語ってくれない(ような気がする)。それに対して本書は ひとつひとつのプレー、行動に「なぜそうするのか」「なぜいけないの か」を簡潔に説明してくれている。本書の初版は1980年だそうだが、こ の頃からサッカーは理論化(理論の整備)が進んでいったのかなと思った りする。あるいはそれは「母国」だからか。

 序文がいい――

サッカーで一番重要なのは、プレーのシステム(フォーメーション)だ と信じ込んでいる人たちは、“生兵法は大怪我のもと”ということわざ を、思い出していただきたい。……(中略)……不正確なパスやシュー トをカバーできるシステムは、存在するはずもないし、(略)または走 らないプレーヤーを大目にみて許すシステムも、全く存在しないことは 明らかです。
(第1巻・12ページ)

こうきっぱり言われると「そうだよな、システムだけで勝てるんならみ んな勝ってるよな、システムを作るのも動かすのもシステムの中で動く のもみんな人間なんだもんな、やっぱり人的要素を無視して語れないよ な」と激しく納得してしまう。ともあれ本書はこのような観点から、 「サッカーにおける真の技術的な側面について」(第1巻・15ペー ジ)語るものである。そして、テクニック(技巧)とスキル(熟練) をきっぱり区別する。

テクニックというのは、ひとつひとつのプレーをすることです。例えば パス、コントロール、ジャンプ、ターンのことを言います。
サッカー用語で言うスキルとは、必要な時に必要なポジションにつける 能力と、要求されるテクニックを正しく選択できる能力のことです。
(第1巻・20ページ)

 こんな調子で、スペースの作り方とかアタックのしかたとかディフェ ンスのしかたとかについて、原則を述べ、効果的な練習の方法を説明す る。

 原著は大きい版らしい。日本語版はコーチが練習の現場に携えられる ようB5判にしたと訳者が語っているが、なるほどと思う。それほど現場 のための智慧がつまっている。でも現場を離れて読みふけっても面白い。 面白いったら面白いのである。

(02/03)

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『植村直己 妻への手紙』 植村直己、文春新書、 ISBN4-16-660275-6750円

 読み初めは、この手の書簡集、人の生生しい肉声が綴られた文章の連 なりを読み通せるか不安だったが、乗ってきてからは、つまり植村直己 の《内面》に引き込まれてからは一気に読んだ。

 そもそも書簡集など他人の感想を言うだけ野暮だと思う。まして冒険 家または登山家としての植村直己すら殆ど知らないから、何も言うこと はない。

 ただ、打たれた。

(02/12)

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パンゲアの娘 KUNIE』(全5巻) ゆうきまさみ、 小学館少年サンデーコミックス、
ISBN4-09-126261-9, 126162-7, 126163-5, 126164-3, 126265-1各390円

 雑誌連載2001〜2002年。あらかじめ ゆうきまさみの公式ウェブペー ジで作者の言い分を知ってしまっていたので、なるほどと思いなが ら読んだけれど、確かにこれは「失敗作」だろう。ようやく布石を打ち 終わった辺りで人気が出ずに連載打ち切りとなったそうで、終わり方が 慌ただしい。しかし、それも頷けるほど風呂敷を広げ過ぎているように 見える。しかも意欲が先走ったか空回ったか、広げるのに急いだ感もあ る。

 無遅刻無欠席以外に取柄のない小学5年生・日向陽(ひなた・あきら) のところに、南太平洋の島国カラバオ共和国からひとりの娘がやって来 る。名はクニエ。30年も行方不明だった祖父洋一郎が、陽の許嫁として よこしたのだ。陽はもちろん両親もそのことを知らない。平穏無事だっ た陽の周辺に騒動が持ち上がる。という縦糸の一方で、カラバオ共和国 付近の洋上に忽然と「杭」と呼ばれる物体が現れ、アメリカ合衆国が調 査を始めると不可解な出来事が続続と起こるという横糸がある。さらに はカラバオの領有権を主張するランゲルハウス財団が絡んでくる――と いう、あらすじを紹介するのも大変なプロットである。

 ゆうきまさみだから、面白くないわけがない。クニエはじめ作中人物 のキャラクターはしっかり描かれているし、「杭」のプロットの筆運び は『機動警察パトレイバー』を思わせサスペンスフル。しかし――

 ぼくは面白く読んだし、途中で打ち切られたのは残念無念だけれど、 縦糸横糸が交互にかつとびとびに展開されるので(布石だから当然そう なるわけだが)、少年誌の主力読者層には追いきれなかったんじゃない だろうか。なにしろ見知らぬ南国娘が許嫁として居候するだけでドタバ タが発生する。それに加えて海棲爬虫類(むかし魚竜などと呼ばれたの は今はこう呼ぶらしい)は出てくるし、クニエを追って南国野郎はやっ てくるし、じいちゃん洋一郎が何を考えているかも謎だし、「杭」は何 やら人智を越えた存在に関わりがあるらしいし――なんだか「新世紀エ ヴァンゲリオン」を思い出した――、小学生の日常だって描かなければ ならないしで、盛り沢山過ぎる。

 面白いだけに、ほんとうに残念。

(02/15)

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『性的唯幻論序説』 岸田秀、文春新書、 ISBN4-16-660049-4770円

 初読。念のため。

 岸田秀は、爽快である。爽快といって悪ければ痛快である。冒頭から、 この人の持論だが、「人間は本能の壊れた動物である」といって始まる。 本能が壊れているがゆえにほかの動物のように本能に基づいていては生 存できず、しかし生き延びなければならないので代わりにさまざまな幻 想を築いてきた。これが「唯幻論」の骨子といっていい。人間の性だっ て例外ではないと、岸田秀は言う。怒る人や不快に思う人も多いのかも 知れないが、ぼくはこの見方に参ってしまった口だ。何といったって人 間の性は他の動物全般の性と比べて圧倒的に「オカシイ」のだから。性 に限らず《人間性》全般について、「より進化したからほかの動物と異 なる」「より優れているから異なる」と考えるよりは、「本能が壊れて いるからこうなっちゃった」と考える方が筋の通った統一的な、つまり は合理的な説明ができるのではないだろうか?

 「人類は全員性倒錯者」ときっぱり言い、性的に「正常」な者でさえ 倒錯の一形態に過ぎないと喝破するのにも胸がすく思いである (これは自分を「性的健常者」の立場におきそこから「『性倒錯者』 『変態性欲者』は異常ではない」と言うような一見反差別的開明的実は 潜在差別的な言明とはまったく異なる)。だいたい、「自分は 倒錯者ではない」と胸を張って断言できる人なんてどれほどいるのだろ うか。ここまで見切ってしまえば、性愛に関する妙な差別はなくなるの ではないだろうか。ここまで見切れる人もそうはいないだろうが。

 岸田秀は、周到である。性の話題を取り扱おうとするとどうしても性 差別(つまり、男女間の)と無縁ではいられない。本人にその気はなく ても性差別的な発言や思考が紛れ込んでくる恐れがあるけれども、本書 では細心の注意を払ってそうした紛れを排除しようとしている。おそら く、「性差別はいかん」という観念ではなくて、著者その人に性差別意 識自体が少ないのではないかと思われる (人間はその根本にお いて差別的であるというのがぼくの仮説なので、「まったくない」とは 言わない)

 唯幻論にも本書の論旨にも概ね同意できるのだが、盲目的に賛成する 気もない。精神分析理論を適用して歴史を(再)解釈するためには歴史の 細部を事実に基づいて論証していかなければならないと思うが、この点、 本書は思弁的であり、《仮説》だと感じる。もっと多くの史実を性的唯 幻論で解剖して欲しいし、反証が現れた時にそれをどう止揚するのかを 見てみたい。つまりまさに本書は「序説」であって、本論の構築はこの 先もずっと続けられなければならないだろう。偉そうだなぁ(笑)

 ぼく自身がどのように意識・行動しているかはさておき、いまどき男 女間の性差別を正当化する理由はなかろうとも思う(どのような歴史的 必然、あるいは環境の変化や思想の変化に起因するのであれ)。本書第 12章にも同感できるのだが、ただ、人間はそもそも差別を好む存在なの で、著者が希望するようには性差別(性差別幻想、性幻想)からは簡単 には解放されないのではないかとも思う。終盤まで「人間の性行動は性 幻想にのみ支えられている」と力説してきた人が(それは塩野七 生が言うのとはやや違う意味合いながら「人間性の現実を直視している」 とぼくには見えるのだが)、どうしてこれほど素直な希望を持 てるのだろうか。これまで人間を支配してきた性差別が崩れ得るとして も、その代わりに人間はまた別の性幻想を構築するだけのことではない のか。そしてそれは、これまでの性差別とはあらゆる面で異なるにして も、やはりなにかしら差別的(性差別的)な幻想になるのではないのか。 そうならない保証はないのだ。

 ところで、以前エスペラント関連のある友人とポルノの話をしていて、 その人はひと括りにしてしまうと「ジェンダーフリー/性差別否定論者」 なのだけれど、「支配も被支配もない中みんなでエロを楽しもうってい う趣旨でポルノを作るなら、なんでもありだ」と言っていた。この発言/ 発想は、本書第12章と通底しているように思う。本人は岸田秀を一度読 んだことがあるかないか程度で、もっぱら社会思想・政治思想の人なの だが、一見関係がないように見えても突き抜けてしまえば通底するもの なのだなと、ふと思った。

 (といった感想はぼくの読み込みが足りないせいかも知れず、 後日再読したらこの文章は一部ないし全面的に書き直すかも知れない)

(02/18)

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『密約外交』 中馬清福、文春新書、 ISBN4-16-660291-8680円

 こういう領域にも興味を持つようになったのは、塩野七生の著作、特 に『海の都の物語』や『ローマ人の物語』の影響だろうか。 日本が外国と交わした密約を、太平洋戦争前(大日本帝国主義)と、戦 後とに分けて、背景を交えて解説している。日本の近代史に触れる時に は避けて通れない――かどうか知らないが、「大陸への進出」について の態度は、著者は「あれは……という見方に与する」と言っている。た だし、「だからといって……」とも言っている。バランス感覚のある人 のように見受けた。(この態度に賛成を一票)

 密約というものを、ぼくは一概に否定しない。秘密裡に取り交わさな ければならない――または取り交わす方が国益にかなう――事柄もきっ とあるだろう。民主主義大流行の現代だからといって「秘密にしておる のはケシカラン」ということもないと思う。しかし、当然のことながら、 「本当に秘密でなければならないのか、その方が国益にかなうのか」の 吟味は欠かせない。本書を見ていると、戦後の密約は、どうも国益を損 なう一方だったのではないかと思えてくる。 もちろん、《国益》とは何なのか、その定義は実はけっこう曖昧だとも 思う。Aさんが見た「国益」とBさんが見た「国益」が対立することだっ てあり得る。ここでは日本という国の主権を保つという点と、日本とい う国の尊厳を保つという点で見ての話とする。

 その点、大日本帝国はずっと「まとも」だったように見える。密約自 体の内容や目的はともかく、密約を結ぶに当たってはまず国益を考えて いると思う。内容や目的はご存じ「大陸への進出」ではあるが、大国ロ シアの南下が帝国の存亡に関わる脅威だとすれば、その脅威を取り除く 策を打たねばならない。国として上り調子の時代でもあったからなのか も知れないが、外交は冷徹で自信があったように見える。 こういうことができ、諸外国と丁丁発止のやり合いを演じられた国が、 太平洋戦争後なんでこんなに弱腰になるのか。岸田秀の日本論(『もの ぐさ精神分析』など)を思い出す。

 どちらにも共通していると感じるのは、後代への責任(感)のなさ。国 益といっても目先の利益ばかりではない筈だ。目の前の「闘い」に負け るのがよいとは言わないけれど、50年後100年後の将来を考えて策を打っ て欲しかったものである。

(02/21)

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『東京・地理の謎』 正井泰夫・監修、ふたばらいふ新書、 ISBN4-575-15326-5819円

 本屋で見かけて興味を引かれて購入。そういえば今年は江戸幕府開府 四百年だ。そのせいか、店頭には江戸関係の本を多く見かける。

 東京の現在の地名には不思議なもの、由来の判らないものが多い。ま た、東京という土地も江戸が最初に建設されて以来人手がたくさん入っ ており、人工的な地形となっている。そうした地名の話題、地理の話題 がつまった本。こういう話題は好きである。読んでもすぐ忘れてしまう ので雑学博士にはなれないけれども(披露する場がないので忘れやす い)。

(02/28)

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3月

『江戸春画の性愛学』 福田和彦、KKベストセラーズ、 ISBN4-584-12051-X1200円

 タイトルどおりの本である。「18禁」である。PTA非推薦、どころ か有害図書指定間違いなし。なぜかというに、男女、男男、女女(少な いが)の性愛場面が克明に描かれた絵が多数収録されている。これが写 真だったら即発売禁止、版元にお縄がかかること間違いなしである。写 真はだめだが絵ならいいのだろうか。

 春画というものを見るのは初めてで、ここまであからさまなものだと は知らなかった。イヤすごいものです。驚いたことに、平安の昔から春 画は描かれていたらしい。みんな好きだったんだなあ。写真がなかった 時代では、これは立派なポルノメディアだっただろう。単に《劣情》を 掻き立てるだけでなく、性愛の技巧を紹介するなど手引書的な性格も持っ ていたもののようだ。現代的なリアリズムという観点から見るとデフォ ルメが多く《リアル》ではないが、イメージの喚起力と《リアリズム》 とはあまり関係ないことがよく判る。男の一物がみな巨大なのには笑う。 しかも青筋がびきびき立っている。怪物のようだ。春画で初めて日本人 を知った西洋人が「日本人、みな巨根」と思い込んだとしてもおかしく ない。まさか昔の日本人がそんな巨根男性ばかりだったことはあり得な いないわけで、著者も言うように、またポルノグラフィの多くがそうで あるように、「男の妄想」であることは論を俟たない。フェミニストの 方方はやっぱり怒るんだろうな。

 決して表舞台には出てこない史料だろうが、見ているといろいろなこ とが窺える。春画に出てくる女性は皆よく肥えているのを見ると、平安 時代には肉づきのよい女性が美人だったというのは本当だったらしい、 など。

 と、春画そのものは勉強になるし解説も詳しいのだと思うが、文章が 少し変である。書き慣れていない人が書いたみたいだ。

(03/01)

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『おいしい古代ローマ物語 アピキウスの料理帖』  上田和子、原書房、ISBN4-562-03441-61600円

 古代ローマの食文化には、『ローマ人の物語』経由で興味を持ってい た。同書は食文化にフォーカスしたものではないが、折に触れて食の話 題が取り上げられるので。そのせいかどうかイタリア料理も最近好きだ し。

 古代ローマの《食》の一端を伝える『アピキウスの料理帖』という書 物があるのだそうだ。そのレシピを取り上げながら古代ローマの食生活 を綴ったのが本書である(作者は実際にこのレシピを現代風にアレンジ して試してみたそうで、それが本書に掲載されている)。「一端」と書 いたのは、言うまでもなくこうした「料理帳」の類は美食家の手になる ことが多いわけで、庶民や中流階級の食生活からはかけ離れていると見 るのが自然だから。塩野七生は庶民の食事は「パンか、野菜やチーズを 煮込んだポタージュが主」と書いている。また、本書には獣肉を使った 料理のレシピが多く現れるけれど、塩野七生によれば「ローマ人は魚と 野菜を好んだ」そうだ。

 と、まぁ、本題とは関係のない話になっていくが、古代ローマには塩 野七生の案内で入ったので、ほかの人が書いた文章を読む時も塩野七生 (のローマ観)との比較になってしまう。ローマ関連の著述に接する時 は「塩野七生基準」で見てしまうのだ。誰しもそういうものだろうし、 こうしたことにはいい面も悪い面もある。せいぜい、ひとつのものの見 方に縛られまいと努力するのが人間の務めであろう。

 で、気になることがいくつかある。

ローマに住む人々は、元老院貴族、騎士階級、聖職者、大商 人(貿易商のような)以外は皆ほとんど貧困生活者であろう。 (31〜32ページ)
政治、軍隊、宮廷社会の中でのサバイバルの苦労より、庶民 のサバイバル生活のほうが気楽なのだ、と……
(38ページ)

こうした用語には違和感を覚える(キリスト教が支配するまではローマ に聖職者という階級は存在しなかったという。また、中世ヨーロッパ以 降の「宮廷」をイメージするのは間違いのように思える)。さらには、

(繁栄を極めたカルタゴに対し)ローマはこれを羨み、嫉み、脅威に感 じた。紀元前二六四年から始まった三度にわたる執拗なローマの攻撃に より、一一八年後、ついにカルタゴは滅亡した。 (63ページ)

という《お決まり》の歴史認識が出てくる。塩野七生が間違っているか、 本書の著者(を始めとして多くの人が抱いている古代ローマ観)が間違っ ているか、どちらかなのか自分には判らない(判ろうとすると自 分自身で古代ローマ史を学ばなければならないが、そんなタイヘンなこ とはしたくない)。思うに、古今の歴史学者にそのような「ロー マ嫉妬説」をとる人がいて、そうした人の書いた歴史書が多く出回って いるのだろう。

(03/02)

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『はじめてのゲーム理論』  中山幹夫、有斐閣、ISBN4-641-08591-92000円

 ゲーム理論は『利己的な遺伝子』で出逢った。それ以来興味はあった が、立ち入ってみるのはこれが初めて。ひさびさの「数学もの」。こう いう世界はやはり好きである。理解できたかというとまったく心許ない が。

 人間、に限らず「周囲の状況や競合/対立する相手を考慮に入れなが ら行動する主体」の《考え》や《振舞い》を数学的に記述できるという のはすごい。さらにはこれが経済学に通じているのもすごいと思う。経 済が好きになるかも知れない。それどころか、オートマトンが登場して チューリングマシンも巻き込んで、計算機科学の領域にまで話が及ぶ。 すごい広がりである。

 ゲーム理論を知ると誰しもそう思うのかも知れないけれど、ふだんの 考えや振舞いが《ゲーム理論的》らしいことに気づく。これもまたすご いことだ。一番身近な数学のひとつには違いない。

(03/13)

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『ゲーム理論入門』  武藤滋夫、日経文庫、ISBN4-532-10829-2860円

 もう一冊。『初めてのゲーム理論入門』よりは「一般人向け」、つま り数学に馴染みのない人向けで、判りやすい。概念としては高度な難し いものを普通のことばで判りやすく書くのは大変だと思うが、成功して いるのではないか。

 ゲーム理論について最初に読む一冊として悪くない。

(03/25)

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『問題解決手法の知識』  高橋誠、日経文庫、ISBN4-532-01341-0830円

 わたしはいっぱしの問題解決者でありいっぱしの問題発見者であると いささかの自負を持つ者である。"Trouble is my business."とフィリッ プ・マーロウは言ったが、鑑札も拳銃も持たないけれども心意気として はそんなものだ。たぶん。そんなわたしがこうした本を読むのは、これ までやってきた《手法》を整理したいと思ったから、そしてもっと意図 的に使ったり使い方を変えてみたりしたいと思ったからである。たぶん。

 のっけから「問題とは、期待と現状との差だ」(16ページ) という定義が提示される。何とはうまく説明できないけれどこ れでがっくりくる。が、考えてみれば著者は正しいことを言っている。 問題とは人が世界を見る見方や態度に依存して見えたり見えなかったり するし、発生したりしなかったりする。娑婆の毒気に当たり過ぎて、わ たしにはこの当たり前の《真実》が見えなくなっていたのだ。無心に謙 虚に読むことにした。たぶん。

 紹介されている技法の中には、これまで自分なりにやってきたことが いくつもあった。自分がしていることを客観的かつ批判的に眺められた のは収穫だった。意識的に使えばもっと有効で強力になるのだろうとも 思う。一方で、「手法は所詮手法に過ぎない」と、いつものことをまた 感じもする。もちろん、集団で事に当たる場合は全員が共通して使える 統一的な《手法》の世話になるに若くはないが、大切なのは手法ではな く、けっきょくは根底にあるものの見方、感じ方、問題解決者の世界観 だろう。手法を通じて適切なものの見方やよい世界観を身につけるなら よいが、《手法》だけ独り歩きしてはいい解決などできまい。問題解決 に限ったことではないが、それまで無自覚にやってきた人がある日突然 《手法》に出逢うと、それに溺れてしまい《手法》を振り回す、それば かりか《手法》のとおりにやることを至上視するという、本 末転倒病というか手段の目的化病にかかる例をよく目にする。これは莫 迦莫迦しい。本書によれば、これまで提唱されている問題解決の技法は 二百種類ばかりもあるそうだ(49ページ)。そんなにたく さんあるということは、逆に、目的を達成できるなら手法など何を使お うと大した違いはないということではないだろうか。たぶん。

 とはいえ、手法に振り回されないためにもどんな手法があってどんな 用途に向いているのかは押さえておくべきだ。本書はつごう20以上の技 法を概観できるのでその点役に立つ。たぶん。わたしは「ひとりブレイ ンストーミング法」や「ひとり入出{いりで}法」的な手法を使うし、属 性列挙法的なことも平気でする。意識的なチェックリストは持っていな いが揃えておくとよいように思う。KJ法を「KJ法的やり方」でやったこ とはあまりないけれど、その視点は持ち合わせているつもりでいる。た ぶん。 わたしがこれらの技法の紹介を読んであまり感銘を受けなかったのは、 もう十数年もアウトラインプロセッサ(別名アイデアプロセッサ)を使っ て来ているせいもあるかも知れない。シンプルなアウトラインプロセッ サであっても、名前のついた《手法》のとおりではなくとも発散も収束 も思いのままにできるのだ。たぶん。

 もうひとつわたしが忘れているのは、これらの手法は自分たちが 問題を解決する場合にのみ有効なものではない、ということだ。そう、 そうであるなら、これらの手法のいくつかはきちんとものにしておくべ きなんだろうな。たぶん。

(03/23)

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4月

『トマソンの罠』  とり・みき、文藝春秋、ISBN4-16-099903-4515円

 とり・みき1994〜5年の作品群。遅蒔きながら初読。

 ひとことで言うと「奇妙な味」の作品が揃っている。これも著者の持 ち味のひとつで好きである。ちょっとつげ義春風味のところが気になら ないこともないけれども。狙っているのだろうか。

 批評になってしまうが、「帰郷」、最後の落ちにはあっと言ったけれ ども、でもこの落ちから逆に読むと冒頭から腑に落ちないところがいく つかある。なんてことを言っては野暮ですか。

 「渋谷の螺子」はサイコ〜。

 描線(画風)といい作風といい、たとえば『SF大将』なんかともまっ たく異なっている。才人だと思う。

(04/05)

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『土曜ワイド殺人事件』  とり・みき×ゆうきまさみ、徳間書店、ISBN4-19-839177-8552円

 とり・みきとゆうきまさみの合作となったら買わないわけにはいかな い。といっても書かれたのは1995年〜97年。ぜんぜん知らなかった。い けないなあ。

 全編面白いのは言うまでもないが、一番笑ったのは冒頭、ゆうきまさ みによる土曜ワイド殺人事件予告編。わずか8ページにギャグが満載さ れている上に、ものすごく《いいかげん》でそれがとてつもなくおかし い。《いいかげんさ》を発揮させたらゆうきまさみの右に出る者はいま い(念のため書き添えておくと、《いいかげん》とはこの場合ぜんぜん 悪い意味ではないし、創作態度とは何の関係もない)。鶸俣昇の最高傑 作のひとつに数えられるであろう 「非科学戦隊リスプマン」は、 ゆうきまさみの《いいかげんマンガ》に触発された一面もあることを思 い出したが、「師」には遠く及ばないのである。

 予告編がそれだから、本編もめちゃくちゃにおかしい。いきなり「デ ブの登山隊」が出てくるのでもうダメ。これ以上ギャグを明かすのは控 えるが、ギャグをつないで話をつくる、久久の正統ギャグマンガと言え るのではないだろうか。ふたりの《いいかげんさ》が絡み合ってシュー ルな感じさえ醸しているのには圧倒される。必買、必読。

(04/05)

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『ビジネス数学入門』  芳沢光雄、日経文庫、ISBN4-532-10847-0830円

 ビジネスに代表される実生活でも数学や数学の考え方が活かされる局 面はある、というわけで、実生活に直結する数学の諸知識、数学的なも のの見方考え方を紹介している。

 方程式、確率、正規分布といった「数学の発想」の概観を述べること に徹しているからか、『ゲーム理論入門』に比べると読んでいてピンと 来ない。もう少し突っ込んだ詳しい説明が欲しいと思うのだが、そう思っ たらそれぞれの分野の入門書なり専門書を読めということだろう。

 確率から正規分布、相関係数から標準偏差から正規検定と、やっぱり 統計はきちんと勉強しておくべきだということが判る。ということで次 は統計学の基礎を読むわけである。

(04/07)

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『統計学入門[基礎編]』  安川正彬、日経文庫、ISBN4-532-01516-2860円

 統計(学)というのは苦手に感じていたし嫌いでもあった。と思う。出 てくる概念が複雑でややこしそうに見えるのと、計算も複雑でややこし そうに見えるのと、それからもちろん「偏差値」に対する懐疑や嫌悪も あったし、何といっても「統計の嘘」「統計の虚偽」を何度となく目に してきたからでもあるだろう。最近になってやっぱり重要だから少しは 齧っておきたいという気になってきた。

 数式や概念の意味、値の求め方などをしつこく、厭らしいくらい丁寧 に説明してくれるので少しは頭に入る感じがする。いい入門書なのでは ないだろうか。

 例題は自分でも実験して解くこと。その後、統計のドリルかなんか一 冊やること。

(04/15)

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『哭きの竜』(全9巻、うち1〜4巻まで)  能條純一、竹書房、 ISBN4-88475-396-8, 4-88475-397-6, 4-88475-398-4, 4-88475-399-2各520円

 実に久しぶりに再読。でも初読の時も途中で途切れた筈。今回も最後 まで読むかどうかは判らない。さいきん身の回りに「背中が煤けている 人」が多いようだなあと思い、そう言えばこんな漫画(劇画だが)もあっ たっけと思い出した。

 竜は一匹狼の麻雀専門の博奕打ち。賭場に出入りし賭け麻雀を打つが、 ヤクザとは距離を保っている。その竜が、東日本最大の広域暴力団の偉 い人に目をつけられる。その時から竜とヤクザとの奇妙な縁が始まっ た―― といったような筋。麻雀漫画(劇画)には面白い(つまり、funnyとい うかファンキィな)ものが多いが、これもそう。一介の雀ゴロがヤクザ と深い因縁を持つというのがひとつ。ふたつめは、いかに強運の麻雀打 ちとはいえ、「その運をもらう(=竜を子飼いにする)」ことが「組の 発展のために不可欠」とまで思い入れるだろうか。みっつめに、何といっ ても、たかが麻雀になんでそこまで入れ込むのか。

 とはいえ、「渋い科白」オンパレード。

「竜……遅かったじゃないけ」
「時の刻みはおれにはない」
(第一巻181ページ)
「おれの哭きは牌を食うんじゃない 牌に命を刻んでいく  やめなよ ……せっかいは
(第一巻191ページ)
「己れの価値は己れで決めるもの 己れに嘘をつく ……あんた 明日からやめなよ 麻雀は
(第二巻149ページ)
「わかるかあんちゃん!? リーチってこった」
(第二巻172ページ)
「オレは己れの運に身をまかせたことなどない ――ましてや  他人の運をあてにする程愚かではない
(第三巻53ページ)
「己れは他人のためには生きられない 悲しいほどに己れのために 生きるもの 他人のことしか問えない… あた  おろかな奴
(第四巻80〜81ページ)

 もちろん白眉は

「あた 背中が煤けてるぜ」

で、これは作中何度となく繰り返される。

 いや〜、ほんとうに面白い。

(04/10)

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『社長のための失敗学』  畑村洋太郎、日本実業出版社、ISBN4-534-03390-71500円

 「失敗学」という領域がさいきん脚光を浴びている。失敗学会という 非営利団体も設立されている。「失敗は成功のもと」と言われるほど失 敗には多くの教訓、さまざまなヒントが埋もれている。しかし失敗を他 人事だと思ったり目をそむけたりして人は失敗から学ばない傾向がある のも事実。失敗を《学》としたのも「学ばない」人たちが多いからに他 なるまい。

 誤解を恐れずに言えば、経営者の失敗は、おもしろい。もちろん、他 人の失敗は、である。

 何といっても、経営者の失敗はドラマだ。それひとつで本人はおろか 従業員や取引相手や債権者や会社が揺れ動き駆け巡るドラマだ。第二に、 人の愚かさをしみじみと感じ入る。これは言うまでもなく主人公ひとり のものではなく、人間そのものの愚かさを、である(面識す らない人の愚かさ具合など判ろう筈がない)。一方で、こうした事例に 登場する経営者は、失敗による挫折は経験しても敗者復活戦には臨むこ とができ、そしてまた勝ち上がってきた人たちである(本書に収 録された事例は「月刊経営者会報」に掲載されたものとのこと) 。常勝・負け知らずではないものの、いちおうは成功者に分類 される人たちだ。失敗談の後に何かしらの「サクセスストーリー」が語 られている。そして成功談がつまらないことは普通ない。その成功談は どこかしら屈折しているわけだけれど、屈折したサクセスストーリーの 方が陰影があって面白い。

 本書冒頭(15ページ)に失敗原因の分類が挙げられて いるが、

1: 無知2: 不注意3: 手順の不遵守 4: 誤判断5: 調査・検討の不足
6: 制約条件の変化7: 企画不良8: 価値観不良 9: 組織運営不良10: 未知

 巻末で、著者は「この分類はもともとは設計や生産のジャンルでスター トしたものだが、実は大変に普遍的な意味を持っていて、産業活動全般 に当てはめることができることがわかった。……こうした分類は種種の ジャンルで成立することがすでに判っている」と述べている (269〜270ページ)。 アタリマエの分類のような気もするが、奥が深いものらしい。そういう ものであれば、いろいろな活動領域で役に立つ筈だし、逆に何かを決定 しようとしたり行動しようとしたりする時のチェックリストとしても使 えるだろう。

 人は過ちを犯す。完璧な対応や完璧な計画に見えても綻びはある。人 間にできるのはその数や可能性や事後の影響を減らすことだけだ。そう そう、塩野七生によれば、マキアヴェッリはこんなことを言っているそ うだ。

誰だって誤りを犯したいと望んで誤りを犯すわけではない。ただ、晴天 の日に、翌日には雨が降るとは考えないだけである。

(04/18)

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『欧州サッカーを極める』  後藤健生、青春出版社、ISBN4-413-04052-X700円

 3月12日に買った本をやっと読めた。

 後藤健生らしい視点と語り口で、ヨーロッパ地域のサッカーが世界の サッカーの中に占める地位と果たしてきた役割、ヨーロッパを代表する 各国のサッカーの魅力を綴っている。あとがきで「盲目的にヨーロッパ サッカーを美化する日本の風潮」に後藤さんらしく釘を差すのも忘れな い。

 『世界サッカー紀行2002』 と重なる部分があるが、こちらの方がヨーロッパに的を絞っておりまた 取り上げる国の数が少ない分、各国のサッカーの概観が詳しくなってい る感じがする(「概観」が「詳しい」というのはヘンですが)。

(04/22)

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『失敗学のすすめ』  畑村洋太郎、講談社、ISBN4-06-210346-X1600円

 そんなわけで失敗学とちょっとつき合ってみる。他人事ではないのだ。 身の回りには己れや他人の《失敗》に学ばない人がとても多い。もちろ ん自分自身がそうに違いない。

 読んでよかった。『社長 のための失敗学』に先だって読むべきだったな。

 偉そうだが、失敗の原因分類は言われてみれば「あ〜なるほど」と思 う。ぼくはそうだった。もちろん、自身の失敗経験からうすぼんやりと 失敗の原因を類別していた程度に過ぎない。このような体系化はそれ自 体スゴいことなのだ。でも、言われてみれば「あ〜なるほど」と思う。

 ほんとうにスゴいことのひとつは、「失敗の定義」(21〜22ペー ジ)ではないか。

ここでは「人間が関わって行うひとつの行為が、初めに定めた目的を達 成できないこと」を失敗と呼ぶことにします。別の表現を使えば、「人 間が関わってひとつの行為を行ったとき、望ましくない、予期せぬ結果 が生じること」とすることもできます。

 こうした定義をしておかないと、著者も何度も言っているように、失 敗を恥ずかしい、隠すべきものと見なしてしまいがちだし、さらに失敗 をした当事者を糾弾するだけに終始してしまう危険がある。

 あと、失敗体験の記述も頷かされる。

 体感学習の大切さも同感。ぼくの経験で言えば、類推が利くという感じ。

 第7章でマニュアル化の暗黒面に触れているが、これも痛いほど判る。

 初版2000年11月。

(04/25)

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『新編バイパス6 指数・対数のし・く・み』  江藤邦彦、三省堂、ISBN4-385-40855-61400円

 なんで今ごろこんなものを、という気もしなくもないが、おさらいの つもりで。判っているようで判っていないのがこの辺の見方考え方だか ら。

(04/26)

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『猫田一金五郎の冒険』  とり・みき、講談社、ISBN4-06-364515-01400円

 本屋で見かけたらつい買ってしまうのは、岩館真理子ととり・みきと ゆうきまさみと……。期待をそらさないのがうれしい。

 「錯覚館の恐怖」は傑作。漫画でしかできない表現だと思う。他にも 随所に作者らしさが炸裂している。爆笑ものである。

 京極夏彦との合作も収録されている。京極夏彦は読んだことがないし、 この合作に作家の基調低音が響いているかどうか判らないけれど、メタ フィクションの趣向が好きな人のようだ。最近のミステリ界はそういう 風潮があるのかな?(全然知らないのだけれど、ミステリは極めて人工 的な虚構だから、《メタ》が忍び込みやすいとは言えるだろう) もし そうなら、今やメタフィクションもファッションのように消費されるも のになってしまっているというわけだ。道理で《メタ》をやるのが冴え ないことになっている筈だ。

(04/26)

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5月

『決定版 失敗学の法則』  畑村洋太郎、文藝春秋、ISBN4-16-358530-31286円

 失敗学の最新刊だろうか(2002年5月)。そんなことないか。《失敗学》 の要諦を30くらいの項目にまとめて書いている。

 著者の日本社会への筆鋒は鋭く辛辣である。

 この本で言われていることを、ぼくは自分なりに個人レベルで実行し てきたと思う。少なくともある時ひどい失敗をやらかした頃から。

 しかし――

(05/03)

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6月

『MITアテナプロジェクトのすべて』  大人の科学編集部・編、学習研究社、ISBN4-05-401814-91800円

 20年から15年も前のことだったんだな。

(06/18)

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『柳生十兵衛死す(全五巻)』  石川賢(原作・山田風太郎)、集英社、 ISBN4-05-401814-91800円

 いや凄い。『魔界転生』での作者石川賢の、原作の枠から飛び出す想 像力も凄かったが、本作はそれに輪をかけている。しかし、これ自体は 面白いアイデアでありプロットだと思うけれど、壮大すぎて原作のたが を壊して飛散してしまったように思う。何よりこれで柳生十兵衛がどん な風に死ぬのか想像もつかない。殺すまでにあと三〇巻くらい必要だっ たのではないか(連載打ち切りで未完のまま終わっている)。残念なよ うな、仕方ないような。

(06/21)

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『退職刑事 3』 都筑道夫、創元推理文庫、ISBN4-488-43404-5580円

 読後感を書きそびれた。再読した時に埋める。(2003.12.31)

(06/27)

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『退職刑事 4』 都筑道夫、創元推理文庫、ISBN4-488-43405-3600円

 読後感を書きそびれた。再読した時に埋める。(2003.12.31)

(06/28)

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『学研電子ブロックのひみつ』  大人の科学編集部・編、学習研究社、ISBN4-05-401814-91800円

 電子回路(ただしアナログ)の動作原理を判りやすく解説し、学研電 子ブロックをより楽しむための本。昔は電気少年だった筈だが、回路図 が読めない。いまこの本を読むとすこぅしは判るが、自分で書けといわ れたら絶対に書けない。困ったものである。

 こういう本を読むと、電気少年に戻りたくなる。(体から電気を発す るとかそういう「電気少年」ではない)

(06/30)

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7月

『楽しい古事記』  阿刀田高、角川文庫、ISBN4-04-157523-7552円

 本屋で見かけて買ったもの。古事記の世界をちょっと覗いておきたい と思ったし、阿刀田高がどんな切り口で迫っているかにも興味があった。

 古事記や日本書紀に触れる気を萎えさせるのは、これらが「為政者に よる日本の歴史」という側面を持っているからだろうか。なんとなく身 構えてしまうのだ。幸い案内者がよかったおかげで、ひとつの物語、ひ とつのフィクションとして楽しめばよいらしいことが判った。こんどは どこかの文庫にあるだろう現代語訳に挑戦してみるか。

(07/20)

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8月

『悪意銀行 -都筑道夫コレクション ユーモア篇-』  都筑道夫、光文社文庫、ISBN4-334-73489-8800円

 文庫本だが、都筑道夫の個人選集の一冊。ちなみにほかには次のよう なものが予定されているようである。

 「職人気質」の作者を髣髴とさせるラインアップといえよう。未読の ものがまだまだ多いことに気づかさせる。都筑道夫のSF作品は殆ど読ん でいないし、表題作でも読んだことのあるのは『猫の舌に釘を打て』 『三重露出』『暗殺教程』『七十五羽の烏』とこの『悪意銀行』だけだ (怪談篇に『怪奇小説という題名の怪奇小説』を入れて欲しかったな)。

 さて『悪意銀行』は『紙の罠』とともに好きな作品のひとつで、こう して久しぶりに出会えてうれしい。とても懐かしかった。どんなところ が好きなのかというと、ふんだんに盛り込まれた作者お得意の「あかる いペダントリー」とでもいうべき雑学、随所に散りばめられたギャグと スラプスティック、その合間に彩りを添えるこれまた作者お得意の色気、 といったところか(リエちゃんはまさに都筑道夫的キャラクタという感 じがする)。「ステレンキョ」はずっと頭にこびりついて離れなかった。 いつかそれが確かに「江戸前のしゃれ」だということを確認した気がす るのだが記憶が定かではない。

 残念ながら本書にはシリーズ第一作『紙の罠』は収録されていない。 その代わりに近藤・土方コンビの短編と中編が読める。これはこれでま た面白い。言うまでもないが。

(08/18)

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『サッカーという至福』 武智幸徳、日経ビジネス文庫、 ISBN4-532-19122-X619円

 武智幸徳もまたサッカーについて信頼できる書き手と睨んでいる。ど ういうところかというと、サッカーに対する「偏愛」がない(または、 比較的少ない)。そしてまず事実を確かめ事実に基づいて論評しようと する姿勢。新聞記者だから当たり前と言えば当たり前だが、こういう態 度をとれる書き手は多くないとも思う。自分で勝手に物語を創ってしまっ てそれをサッカーに、読み手に押しつける。失礼きわまりない行為だと 思うが、そんな書き手にはうんざりする。

 その著者の「第一作」だそうだ。初版1999年。文庫版2002年3月。

 これまでこの人の文章は雑誌記事でしか読んだことがなく、まとめて 読んだのは初めて。この人の視点、偏見、もろもろ含めてサッカーへの 思い入れが感じられる好ましい一冊。

(08/23)

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『名人 - 志ん生、そして志ん朝 -』 小林信彦、朝日選書、 ISBN4-02-259820-41200円

 本屋で見かけたのでそのまま確保。週刊誌のコラム (下記)でたびたび古今亭志ん朝 を取り上げてきた小林信彦ならではの本と言えるか。志ん生や志ん朝の ファンだからではなく、小林信彦のファンなので買った。この人がこの 二人の落語家について何を言っているか(言ってきたか)を読みたかっ たわけだ。

 残念ながら落語にはまったく縁がない。原因はほかならぬ小林信彦に あって、「落語などというものは『勉強』するものじゃない。小さい頃 から寄席に通って、また周囲の大人たちが論評したりするのを聞いて感 覚を身につけ磨くものだ」「江戸の落語というのは江戸ことばの芸だか ら、江戸ことばが判らなければおかしさも判らない」といったようなこ とを何かに書いていて、東京の人間でもなく寄席に通い詰めることもで きない自分は落語を諦めた。今思うと、そんなことを言われても気にせ ず落語を聞き続ければ何かしら感じるところはあったかも知れない。

 書き下ろしではなく、昔志ん生や志ん朝について書いた文章と、志ん 朝の死後雑誌に書いた文章を集めたものである。この人は本当に落語が 好きで、志ん朝が好きなのだなと思う。「気にせず落語を聞き続けてい れば……」と思うのはこういう時だ。

 まあいい。仕方あるまい。人生は短く、興味のあること何もかもに手 を出すことは不可能だ。

(08/24)

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『にっちもさっちも』 小林信彦、文藝春秋、 ISBN4-16-359630-51476円

 週刊文春に連載の随筆『人生は五十一から』の、二〇〇二年分をまと めたもの。これで五冊め。著者は「いやー、これはクロニクルだなあ」 と感想を漏らしている(あとがきより)。しかり、これは一九三二年東 京下町の商家に生まれた、日本の笑芸とアメリカ喜劇映画が好きな、 『オヨヨ大統領シリーズ』の作者にして『唐獅子株式会社シリーズ』の 作者にして『夢の砦』『ぼくたちの好きな戦争』の作者にして随一のコ ラムニストが記す年代記だ。しかも世相はどんどん悪くなると来ている。 今回はついに経済政策も俎に乗っている。

 フェアーモントホテルがなくなったのには驚き、少しショックだった (「寒中短信」)。別に贔屓にしていたわけでもなくそれどころか入っ たことすらないけれど、なんとなく憧れていたのだ。一度は泊まってみ たいな、という程度だが。

 いつか将来この国と世界が悪い時代を抜け出られて明るい生活を謳歌 できるようになった頃、この随筆集は史料のひとつになるのではないだ ろうか。

(08/24)

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『退職刑事 5』 都筑道夫、創元推理文庫、ISBN4-488-43406-1600円

 

(08/29)

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9月

『退職刑事 6』 都筑道夫、創元推理文庫、ISBN4-488-43407-X600円

 

 解説でも言っているように確かに5巻6巻は「異色作」が多く目につく。 行き詰まってのものか、目先を変えようというのか、新たな道や方法を 模索しているのか。

 都筑道夫を見ていると小説を書くっていいものだなと思う。自分もま た「技巧派」の作家だからだろうか。もし職業小説家になっていたとし たら。

 退職刑事シリーズはひとまずこれでおしまい。

(09/02)

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『ゲームのルール』 ピエルルイジ・コッリーナ、NHK出版、 ISBN4-14-080812-81600円

 サッカー本は大概面白いが、レフェリーという「内部の部外者」、そ れも凡百のでなく2002年ワールドカップ決勝戦の笛を吹いたレフェリー が書いたのだからなお面白い。コッリーナ氏の審判哲学、人生哲学が 語られているが、これは仕事一般、人生一般に通じるんだな。

 意外だったのは、彼はつるつる頭なのだが、これは若い頃脱毛症にか かって、その時に剃ったのがはじまりらしい。ずいぶん悩んだのだそう だ。ヨーロッパ人は脱毛・薄毛など気にしないのかと思っていたらそう でもないらしい。若い盛に髪の毛がなくなったらやっぱり気にするか。 そうか。そうかも知れないな。いや、そうだろうな。うむうむ。

(09/09)

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『性と愛の日本語講座』 小谷野敦、ちくま新書、 ISBN4-480-06118-5740円

 性愛――これも転変を重ねてきたことばのようだけれど――に興味の ない人間などまずいないし、性に関係のない人間は皆無である。だから 世の中は性や愛に関することばに満ちている。日本語にだって満ちてい る。しかし、というかだから当然、というか、性愛に関することばも時 の流れで移り変わる。ところがこうしたことばの生死・変遷・盛衰の事 情はどうも判然としない。こういう本があるとありがたく飛びついてし まう。

 性とか愛とかいうものにまつわることば(それはそうしたものに対す る「態度」も内包していると思う)は、時代によって違うし、意味する ところも違う。「古代の日本人の性はおおらかなものだった」とか「江 戸時代以前の日本社会には『処女性』などという観念はなかった」など とうっかり思い込んで言ってしまったりするけれど、そう簡単に問屋が 卸さないらしいことが判る。だからといって今の時代の性観念が昔から あったと断定するのも怪しいけれど。剣呑である。

 社会的な差異も見逃せない。現代日本人は「愛」とか「恋愛」とか 「性愛」とか(に関する概念)を普遍的な、グローバルなものと思って いるかも知れないが、それは間違いで、アメリカ合衆国とヨーロッパと 日本では違いがあるらしいことも判る。

 ことばは生き物であり生ものだという、至極当たり前のことを改めて 思い知る。人々の社会や世界の感じ方が変われば、ことばの意味が変わっ ていく。あることばがある意味を表すのが不適当だという感覚が広まれ ば、そのことばが廃れ別のことばが生まれたりする。一方ことばは有限 だから、昔に一度廃れたことばが別の意味を付与されて復活したりもす る。そういうことの繰り返しでことばが変化し、豊かになったり貧相に なったりし、われわれに見える世界もまた変わってゆく。さて21世紀日 本人の性は豊かなのだろうか、貧しいのだろうか。

(09/15)

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10月

『フォゲット・ミー・ナット』(1) 鶴田謙二、講談社、 ISBN4-06-334751-6857円

 初期の作品からいくぶん筆致や絵柄も少しは変わったと感じるものの、 鶴田謙二の描く女性は相変わらずかわいらしくて無邪気で不器用でいじ らしくて適当に邪気もあってなにより美人なので好きだ。その美人ぶり がぼくの好みだからたまらない。鶴田謙二の描く女性に限って《二次元 コンプレックス》になってもかまわないや。

 この作者は物語の背景や筋を「説明」することが少ないのが特徴だが、 いつにもましてこの作品では判りづらい(最初、酔った状態で読んだせ いもあるだろうが)。お話の本筋と主人公の境遇とが判ったのが二回目 の読み直し。その他登場人物との関係が把握できたのが三回目というあ りさま。しかもこの世界では日本のプロ野球に女性選手が平気で出場し たりしているがそれについての説明は(今のところ)ない。

 いやしかし、鶴田謙二はいいなあ。本当にいい。

(10/03)

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『ロープとひもの結び方』 ロープワーク研究会、西東社、 ISBN4-7916-1065-2900円

 本屋でふと目に止まったので買った。

 縛りに興味がある。と書くと、えすえむ方面の想像をされるのかな。 しかし紐・縄・ロープを(で)縛るというのは、エスエム的快楽方面の専 売特許ではなくて、かつては日常生活でも非日常(キャンプなど)でも 大切な技術だった。引越しの荷造り、古新聞古雑誌を捨てる時、贈り物 にリボンをかける時……。いつしかテクノロジーの発達、道具の進化、 引越し商売の発達などによって「縛る」という行為や技が廃れてきてい るようだ。事実、昔はデパートの登山・キャンプ用品売り場には大概ロー プが置いてあったのに、今は登山用具の専門店に行ってもなかなかお目 にかかれない。

 確かに普段の暮らしではあまり必要なくなっているのかも知れないし、 たまにキャンプをするにしてもロープを縛るよりずっと簡単な道具が揃っ ている昨今ではある(テントなんか、ワンタッチで組み立てられるもの が出ているくらいだ)。しかし、「縛る」という《ローテク》が有用な 場合もあり、それしか使えない局面だってある。忘れてはならない技術 だと思うのである。

 本書もそういった危惧を表明している(というか、先に書いたことは この本を読んで思い当たったというのが正しい)。

……昔から連綿と受け継がれてきた日常生活での知恵や工夫は、私たち の身の回りから徐々に姿を消しつつあります。ロープワークも例外では ありません。しかし、一方で登山やヨットのように今もロープワークが 重要な位置を占めている分野もあります。このことは、使える道具が限 られていたり、状況が一定でないような条件下では、ロープワークがもっ とも有効で応用範囲の広い技術だということを意味しています。
(「はじめに」より)

 そんなわけで、紐や縄の各種縛り方を身につけておくのは悪いことで はないのである。そうしておけばいつかその気になった時にえすえむも 愉しめるのである(かどうかは判らないが)。

(10/04)

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『うまくなる! フットサル』 梶野政志・監修、西東社、 ISBN4-7916-1177-21000円

 フットサルということをしている。なかなかうまくならない。スポー ツであり体の技だから簡単にうまくなるわけはないのだが、コツのよう なものがあるなら教わりたい。ということで、性懲りもせずこの手の本 を買ってしまう。

 参考になることはたくさん書いてある。でも、本を読んだだけでうま くなることなどあり得ないのである。

(10/06)

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『大正時代の身の上相談』 カタログハウス・編、ちくま文庫、 ISBN4-480-03710-1680円

 本屋で見かけた時は一体何物ぞと訝ったけれど、別におかしなもので はない、新聞の身の上相談欄に寄せられた悩みと回答の列挙である。た だし、大正時代の。

 巻末解説で 小谷野敦が厳しく評 しているが、編者のコメントはまるで故意にそうしているかのようにこ とごとくピントを外していて、読むに堪えない。ない方がましである。 次版からは削除して欲しい。

 しかしその点を除けば、たちまち大正時代に引き込まれ、そこに暮ら す人人の生生しい息遣いに目を開かされること請け合いである。21世紀 初頭に生きるわれわれの悩みと思うほどの差はないことが判る。

(10/12)

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『大江戸美味草紙(むまそうし)ISBN4-10-114915-1400円

 何気なく手にとったのだが、予想外に面白い。ぼくの《江戸》に関す る知識は池波正太郎によるものが殆どだが、池正必ずしも絶対でない、 というか、それ以外のパスもあるのだと思わされた。

(10/17)

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『江戸春画の性愛学 2』 福田和彦、KKベストセラーズ、 ISBN4-584-12055-21200円

 3月に読んだ本の 「続編」。

(10/19)

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『男の作法』 池波正太郎、新潮文庫、 ISBN4-10-115622-0400円

 しまった。もっと若いころに読んでおくんだった。

 のっけから、こうである。

男というものが、どのように生きて行くかという問題は、結局、その人 が生きている時代そのものと切っても切れないかかわりを持っています。

 含蓄溢れまくりの一冊。読んでいて耳がイタイ。池波正太郎の時代は 疾うに過ぎ、男という生きもののありようも大きく様を変えているとは いえ、まだ通じる事柄はあるのではないだろうか。以下、語録を。

(鮨屋などで、初めての店に入る時はテーブルに坐るという話)
だから常連の坐る席へいきなり坐っちゃうということは、ちょっとそれ はね……(略)やっぱり一番隅のほうへまず坐ったほうがいいんだよ。 (16ページ)
人間とか人生とかの味わいというものは、理屈では決められない中間色 にあるんだ。 (20ページ)
そういう矛盾だらけの人間が形成している社会もまた矛盾の社会なんだ よ、すべてが。 (29ページ)
だけど、ただ理屈でもって全部割り切ってしまおうとすれば、もともと 矛盾の存在である人間がつくっている社会の苦痛とか、苦悩とか、苦悶 とか、傷痕とかいうのはひろがるばかりなんだよ。 (30ページ)
(「いまどき」の結婚生活事情。金持ちの娘を妻に持った夫。用事を言 いつけたら妻が泣き出し、家を追い出されたが、結局詫びを入れて戻っ たという話題で)
人間というのはやっぱり、一つまいた種がいろいろに波及して行くわけ だよ。外にも波及していくし、自分にも波及してくる。(略)その一つ の出来事が彼のこれからの人生に全部、作用していくわけです。 (45ページ)
身だしなみとか、おしゃれというのは、男の場合、人に見せるというこ ともあるだろうけれども、やはり自分のためにやるんだね、根本的には。 (54ページ)
ネクタイはもう絶対靴と合わせなきゃだめ。……(略)……上着と靴で 合わせなきゃおかしい。……(略)……縞のシャツに縞のネクタイ、こ れもまたおかしいね。 (58ページ)
持ちものというのは、やはり自分の職業、年齢、服装に合ったものでな いとおかしい。……(略)……そのときの自分に合わせて、そもそも何 のためにその道具を持つのかということを基準にして。 (67ページ)
(ただし万年筆はいくら高級なものを持ってもいい、という話)
それは男の武器だからねえ。(略)それに金をはり込むということは一 番立派なことだよね。 (87ページ)
前もって前もって事を運ぶのはせっかちだとか気が早いとかいうけれど も、せっかちじゃないようにしたいからこそ、そういうようにしている わけだ。(93ページ)
ぼくは、甘い期待はしないで、
「最悪の場合を想定しながら、やる……」
という主義なんだ。 (95ページ)
この「時間」の問題というのは、もう一つ大事なことがある。それは、 自分の人生が一つであると同時に、他人の人生も一つであるということ だ。(97ページ)
人間は動物だからねえ。(略)それを高等な生きものだと思い込んでし まって、そうした社会をつくろうとしていくと、非常に間違いが起きて くるんだよ。(110ページ)
世の中に余裕があったというのはどういうことかというと、自分の小遣 いを持っていたわけだよ、金高の大小にかかわらず。つまり、家庭の生 活以外の小遣いというものが、それぞれ分相応にあったということです よ。(124ページ)
だから、そのことを考えて実行することが、
「男をみがく……」
ということなんだよ。(略)根本は何かというと、てめえだけの考えで 生きていたんじゃ駄目だということです。(129ページ)
電話のかけかたでだいたいわかるんじゃない、女は。(135ページ)
男のほうが台所をやったり、(略)いまは日常茶飯事。(略)その人た ちはもう、愛情の表現というよりも「お茶を飲むように当然のこと」と しているわけだ。そうすると、生活のどこにも劇的なものなんかないと いうことだよね。(139ページ)
男は何で自分をみがくか。基本はさっきもいった通り、
「人間は死ぬ……」
という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。 ……(略)……そうなってくると、自分のまわりのすべてのものが、自 分をみがくための「みがき砂」だということがわかる。 (190ページ)
人生の薬味ですよ、占いとか手相、人相などは。(198ページ)

(10/22)

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『南海ホークスがあったころ』 永井良和・橋爪紳也、紀伊國屋書店、 ISBN4-314-00947-01800円

 副題に「野球ファンとパ・リーグの文化史」とある。

 日本のプロ野球について、「メジャーな」球団に関して、またはそれ を中心に語った本は数多い。有名な選手に焦点を当てた本も数多い。人 生訓や精神論あるいは人情話に終始する本も多いし、人事論や組織論を 語るビジネス書の体裁をとるものも多い。本書はそれらと明確に一線を 画し、南海ホークスという今はもう存在しないプロ野球チーム、昔昔は 強かったけれど消滅する直前の15年間はその面影をすっかりなくしてい た弱小チーム・お荷物球団を題材にして、そのホームグラウンドだった 大阪球場(このスタジアムももう存在しない)のこと、親会社の球団経 営の遷移、ファンと応援のあり方、などについて、文献を丹念に追い史 実を注意深く拾って綴られた現代史である。

 ぼくは野球というスポーツに興味を失って久しいが、この本は熱中し て読んだ。野球が好きな人も嫌いな人も、サッカーの方が好きという人 も、スポーツにはまったく興味がないという人も、読んでみるといい。 太平洋戦争後の日本人の生活やその移り変わりの一端が、日本人の大き な娯楽のひとつだったプロ野球という望遠鏡を通して窺える。

(10/25)

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『ゼロからはじめるシーケンス制御』 熊谷英樹、日刊工業新聞社、 ISBN4-526-04782-12200円

 シーケンサ、プログラマブルコントローラというのは未知の世界だっ たが、この本でちょっぴり判った気がする。

 第3編で紹介される図式化技法とプログラミング手法は自分には新鮮 で興味深かった。「行程歩進」なんてことばも手法も初めて知ったし、 状態遷移図も自分が知っているのとは違う(状態遷移表としても微妙に 異なる)。使う手法によって出来上がるプログラムが変わる(可能性が ある)というのも驚きだ。これらの中ではタイムチャートが一番プログ ラムしやすいように思ったが、図を作るのは大変そうだ。

(10/25)

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11月

『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』 小林信彦、文藝春秋

 久久の再読。所有していたものは行方不明になっているので、改めて 古本屋で購入した。

 ぼくはこの人の著作で小説の愉しみを知ったのだと思う。これはまた 愉しみに溢れた一作なんである。作者も楽しんで書いているように見え る(ちょうど『唐獅子株式会社』を書いている最中で、中の一篇にも関 連したくすぐりが入っている。後になってその当時のことを知らないと 何のことかまったく判らない)。あとがきで言っているように、作中人 物の会話の《間》が絶妙で、すっかりマイッテしまったのだった。こう いう本が絶版になってしまう世の中はやはり間違っていると思う。

 主人公敏子は人妻である。が、並の人妻ではない。夫二階堂秋彦は 「自称・さすらい人」。このことば、今では注釈が必要だろう。各地を さすらい、そこで出会ったトラブル(大概、土地の悪人が利権を貪るた めに善人や弱者を搾取しようとしている)を軽く片づけ、悪人どもを退 治する。ちんぴらと殴り合い、ギャングと銃撃戦を展開し、時にはつか まって拷問にかけられるが不敵に笑って脱出する、驚異のタフガイであ る。当然女には慕われるが、「流れ者には女はいらないのさ」と呟いて 夜霧の中を去っていく――それが何の気の迷いか敏子と結婚してしまっ たのだった。しかも、というか、さすらい人のくせに、というか、料理 には人一倍の関心を持ち、自分のクックブックを持ってさえいる。そん な超人を夫に持つ敏子が、「《さすらい人》の妻は如何にあるべきか」 という根源的な問いとともに、毎回料理に立ち向かう。

 料理というものに興味を持ち始めた頃に読んだこともあり、作中で紹 介される料理の作り方や蘊蓄もむさぼるように読んだ。作ったこともな いくせに東坡肉やババロアの作り方を知っている不思議な人間はこうし て出来上がったわけである。鰻の白焼きは食べてみたくなってたまらな かった。スモーガスボード(いわゆるバイキング)にも唾がたまった。 シャリアピンステーキは今だに憧れの料理である。グァカモーレなんか 土曜の深夜に作ってみたっけなぁ。アボガド以外はありあわせの材料で、 失敗してしまって、まずかったなあ。

(11/01)

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『現代軍用ピストル図鑑』 床井雅美、徳間文庫、 ISBN4-19-891660-81420円

 小説を書いているとこういう本も資料として目を通す必要に迫られる 時がある。ということは今のところまったくないが、ピストル、ハンド ガンの類は好きである。実際のドンパチやサバイバルゲームでさえする 気にはならない(たぶん)けれど、眺めている分には楽しい。

 古今東西の軍用ピストルを紹介し、現在主流のものについては詳しい 資料も載せている。残念ながら「軍用ピストル」なので、ベレッタ・ジャ ガー(記憶に間違いがなければ、婦人向け小口径ピストル)とかコルト・ ポケット(記憶に間違いがなければ、やはり婦人向け護身用の小口径ピ ストル)などの「お気に入り」は外れている。

 なんで好きなのかを突き詰めて考えたことはないが、たぶんその形の 美しさ・または醜さ、機能性、デザインの妙が小さい道具いっぱいに詰 め込まれているところ、まあそういったところだろう。「銃が好き」な どというと眉を顰める人人がいる。銃器の類に興味を持つことが、攻撃 的性向や殺人・傷害への嗜好の表れであるかのように感じられるらしい。 気持は判らないこともないこともないこともないが、神経過敏なんじゃ ないかと思う。もっと言えば短絡的に過ぎるだろう。本来はボールを打 つためだけの道具である野球のバットやゴルフのクラブ、大工道具であ る金槌なんかを人殺しに転用する輩の方が野蛮で残忍じゃないだろうか。 なんて話を始めると水掛け論になって泥仕合に発展するのでやめておき ますが。

(11/03)

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『DAI-HONYA』 とり・みき+田北鑑生、早川書房、 ISBN4-15-208429-41500円

 「SFハードボイルドコメディ」、荒唐無稽という舞台の上で話の筋が よく考えられており、ドラマ性も充分ある。その上に随所(細部)にとり・ みき一流のギャグが散りばめられているのだから面白くない筈がない。

 舞台設定、荒筋は――というと、これが一言で言えない。作品の冒頭 や、途中でも作中人物の科白を借りて、簡単な説明はあるのだが、なん だか焦点がぼけている感じで輪郭をうまくつかめない。だから荒筋は言っ てはいけないのかも知れないけれど、無理して言うと、

21世紀、コンピュータとコンピュータネットワークの発達により、 「本」――紙に印刷された出版物はその存在が危うくなりかけた。政府 は弱体化した出版社と書店を保護するために「書店法」という法律を制 定。しかしこの法律は大資本による出版と販売の独占を招き、書店内で の犯罪や出版社・書店に対するテロも激化していった。そうした書店犯 罪を取り締まる権限を持つのが「書店管理官」だ。
ある晩、ある大型書店に、ひとりの書店管理官が訪れた。彼に託された 任務は翌日から始まる「20世紀の雑誌展」の警護だったが――

 初出は1992年8月から1993年9月の雑誌連載で、その時期から見て、表 題と筋は「ダイ・ハード」を意識しているのではないかと思う。

 作中人物の関係とその描写も見事だし伏線も周到で唸らされる。その 上にとり・みき一流のギャグなのだ。ぼくはマンガ読みではないし、最 近のマンガは殆ど読まないけれど、「マンガの楽しさ、マンガの愉しみ」 を久しぶりに味わったような気がした。実際、それほどこの作品には 「マンガならではの、マンガでしかできない表現、遊び」が溢れている。 いや、それ以上にドラマ性やプロットや伏線の楽しさが踊っていて、そ うした楽しさの少ないマンガが多い昨今、こういう作品はとてもうれし い。

(11/08)

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『ホモホモ7完全版』 みなもと太郎、ブッキング、 ISBN4-8354-4061-72600円

 ぼくにとっては、長らく幻のマンガであり伝説のマンガであり憧れの マンガだった。まず、みなもと太郎という漫画家が伝説であり憧れだっ た。絵柄や画風が一風変わって見えたのが一番大きいだろうか。それで いて気がついた頃にはまとまった作品に接する機会もなかった。後年 『風雲児たち』や『レ・ミゼラブル』などを読むことができてちょっと は溜飲を下げたが、「いや違う、みなもと太郎はもっと猥雑でえっちな 面もあった筈」という思いもあった。そんな思い込みの根っこにあった のが、たぶん、『ホモホモ7』だ。

 改めて初めて読んでみると、面白いといえば面白い。面白くないとい えば面白くない。面白いのは、やはり「劇画調絵柄とギャグ調絵柄の混 在、ギャップ」というギャグ。しかしこれは小説でいえば文体の仕掛け、 語り手や書き手のレベルの仕掛けに相当する、《メタな》ギャグだろう。 こういうメタなものを笑える人ならよいが、たとえばマンガをよく読ま ない人(マンガの文法に興味を持たない人、お話だけ楽しむ人)に勧め ようかと考えるとちょっと躊躇してしまう。その点が面白くない。あと、 メジャーデビュー作だそうだから仕方ないのだが、後年登場するような 名物キャラが見られないのも残念(ただし、「髭の大口の人」は出てく る)。ちょっと悪く書いてしまったが、しかし、面白い。

 巻末の広告から察するに、これは 復刊ドットコムでの復刊投票の結果刊行に至ったもののようだ。実 例を見ると、こうした活動もよいものだと思う。復刊して欲しい(つま り、絶版になった)本はたくさんあるので、ぼくも要望を出してみよう かな。

(11/08)

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『THE LAST BOOKMAN』 とり・みき+田北鑑生、早川書房、 ISBN4-15-208438-31400円

 『DAI-HONYA』の続編。舞台は前作からさ らにN年後。郊外の人気のない駅に主人公が降り立つところから始まる。 昔世話になった小さな書店を訪れるためだが、その理由は――という筋。

 プロットもよく練られているし、伏線もきちんと張ってある。前作の ギャグを逆手にとったギャグもある。ラストシーンに至っては思わずほ ろっとしてしまう。「最近のマンガ」はまったく読む気にならないのだ が、こういうマンガは別。

(11/09)

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『あばりし一家完全復刻版 1〜5』  永井豪、秋田書店、

 やはりこの作家はちょっと「変」だ。永井豪はちゃんと読んだことが なく、『デビルマン』『けっこう仮面』程度しか知らないが、ギャグ漫 画である筈の『けっこう仮面』も、舞台が中学校でありながら(これは 少年誌という発表媒体のせいもあるのだろうが)、やっていることは中 学どころではない肉体暴力であり性暴力である。2003年現在ではとても 発表が許されないだろうと思える内容だ。根っこには人間不信、加虐嗜 好(サヂズムですね)があるのではないかと思ったものだ。

 この『あばしり一家』にしても、中学生の主人公が人を切り殺す他、 末っ子の小学生も平気で爆殺するし、中学生と教師が殺し合ったりする。 『バトル・ロワイヤル』に驚き眉を顰めるなんて「古い」んである。そ のくらい描いてもギャグとして許容された時代だったということなのだ ろうか。それだけじゃないと思う。作家の内面にそういうものを描かせ る何かがあるんじゃないかと思う。破壊願望というか、死への指向とい うか。

 ちなみに、ほんとうは『ハレンチ学園』を読みたかったのだが、どう にも見つからずにこちらを買った。思うに『ハレンチ学園』は絶版なの ではないか。『あばりし一家』にしても、とりあえず最初の五巻を買っ て、面白かったら残りを買おうと思っていたのだが、次に書店に行った 時は姿を消していた。一時的なものであって欲しい。

(11/09)

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『ねじとねじ回し』 ヴィトルト・リプチンスキ、早川書房、 ISBN4-15-208054-51500円

 途切れ途切れに読んできたので全体の印象がちょっと散漫になってし まっている。要は、ここ1000の最大の発明はねじとねじ回しなんである。 そしてその祖はアルキメデスなんである。

(11/11)

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『地図にない国からのシュート』 今拓海、岩波書店、 ISBN4-00-023819-12300円

 本屋のサッカー本コーナーに置かれていたりするが、サッカー本と思っ て手にとると裏切られる。「サッカーという世界共通の言語によってま だ国ではない「国」について語る」(著者あとがき)という意図のもと に、パレスチナという「国」ないし「地域」のサッカー事情、政治事情 を、1998年から2002年までに渡って取材したものである。

 この1998年から2002年という時間には結果としてとても大きな意味が 含まれることになったのだと思う。なぜなら、本書巻頭にも年表がある が、

1993年オスロ合意成立(ヨルダン川西岸地区とガザ 地区の独立)
1994年オスロ合意に基づくパレスチナの暫定自治始 まる
1998年パレスチナサッカー協会、FIFA(国際サッカー 連盟)に加盟
1999年暫定自治期限切れ。独立の延期
2000年キャンプ・デービッド会談決裂。
イスラエルのシャロンがイスラム教の聖地「ハラム・アッシャリー フ」に入る。
アルアクサ・インティファーダ勃発(イスラエルへの抵抗運動)
2001年アメリカ合衆国「9・11テロ事件」により、パ レスチナ自治区内へのイスラエルの攻撃が激化。
パレスチナ、ワールドカップアジア一次予選に参加

となっていて、パレスチナとイスラエルの関係が大きく変わろうとして いた(変わる筈だった)時期、パレスチナ人が現実に希望を持ち、その 希望が砕かれた時期に相当するからだ。

 率直に言って、この本に記されているパレスチナの現状を、ぼくはろ くに知らなかった。もっと率直に、過去の歴史も政治的背景も、殆ど知 らなかった。世界史でユダヤ人の離散、ドイツによる虐殺、イスラエル 建国は習った。かの地がユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地であ るためにややこしいことになっていることくらいは知っていた。しかし、 そのどれもが「ユダヤ寄り」「ヨーロッパ寄り」の視点だったような気 がする。レコンキスタ(国土回復)だってキリスト教徒の視点からのこ とだし、十字軍だってそうだ。一方でヨーロッパが中世だった頃世界の 学芸の最先端はイスラム世界であり、たとえばアルゴリズムということ ばはイスラムのフワーリズミという人名に由来すると知っても、それこ そ「へぇ〜イスラムって凄かったんだねぇ」という程度だ(わりと公平 に見られるようになったのは、『ローマ人の物語』でユダヤ問題を読ん でからだと思う)。パレスチナ・ゲリラというとテロリスト・絶対悪と いうイメージを持っていたが、どうやらそれは偏った見方だったらしい と、この本で知らされた。自分の不明を恥じる。

 本書に登場するのはサッカー関係者であり、サッカーの話をする。し かし、というか、そして、というか、サッカーを通じてパレスチナを語 る。なぜ祖国や同胞が苦しんでいる時にサッカーを続けるのか? ある 選手はこう答える。

「俺にとってサッカーをするというのは国民としての義務なんだよ。国 を代表して闘うということは、イスラエルの占領に対するインティ ファーダの状況を説明するひとつの方法なんだ」
「俺たちはパレスチナ人の代表だ。パレスチナが存在していること、そ れを報せる、そして旗をかかげる」

 「政治的にアクティブではなかった」と語る選手もいる。また、若い 世代のなかには「暴力に対するに暴力をもってするのでは何も解決しな い」と考え、互いに理解を深め時間をかけて平和を醸していこうと行動 する者もいるそうだ。そうだろうと思う。パレスチナ人がみな政治に関 心を持ち政治に関わろうとするわけではないだろう。パレスチナ人がみ なイスラエルに対して武力行使を是としているわけでもないだろう。そ れが現実というものだ。ステレオタイプは頭を使わずに済むから楽だけ れど、ステレオタイプによりかかっていてはやはり現実を見誤る。

 話は逸れてしまう。2002年ワールドカップが開催された時、日本の若 者たちがアメリカ合衆国の攻撃で傷ついたアフガニスタンにサッカーボー ルを贈ろうと運動した。それに対して、訳知り顔に「サッカーボールな んか送る金があるなら、医薬品、毛布、食糧など、もっと重要で急を要 する物資がある筈だ」と批判する人たちがいた。こんな知ったかぶりの 正義漢面はもうやめにして欲しい。ぼくも中東の情勢には疎いし現地の 様子など見たこともないし戦争被害の実態も知らないし偉そうに言える 立場ではないけれど、医薬品や毛布が必要なのも現実なら、サッカーボー ルで遊びたいのもまた現実だということは判る。それが人間というもの だからだ。

(11/15)

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『オウム真理教大辞典』 東京キララ社編集部・編、三一書房、 ISBN4-380-03209-41300円

 あれから八年経ったのか。確かに大事件だったけれど、自 分はその頃この事件にまともに向き合わなかったし、といっ て面白がりもしなかった――と思う。ヒステリックでもなかったがシニ カルでもなく、興味本位でもなければ冷静でもなかった。

 「反オウム」とか「オウム擁護」といわれてもピンと来ない。「反オ ウム」の中心となっていたジャーナリストや弁護士の言動、言説に違和 感を覚えなかったといったら嘘になる。「オウム擁護」をする気にはな らなかった。マスコミの報道に嫌悪は感じたが、その虚偽を暴こうとす る熱心さはなかった。

 今この本を手がかりに当時を振り返っても、漠然とした記憶しかよみ がえらない。個個の事件に恐怖し憤りを覚えた記憶はあるが、《全容》 に対してはあまりに大きくて手が出せなかった印象がある。 ひとつ言えるのは、あの事件から、この国が一挙に崩れおか しくなっていった。いや、それのせいでかどうかは判らない。それは単 にきっかけに過ぎなかったのかも知れない。

 今思うのは、

(11/22)

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12月

『社会党に騙された!』 野村旗守・編、宝島社、 ISBN4-7966-3777-X1200円

 社民党が先の衆議院議員選挙で大敗したが、その前から北朝鮮の日本 人拉致疑惑で評判をかなり落としていた。ネット上では社民党を追及す るサイトなどもあった。そうしたサイトのひとつを訪れたのはたまたま だったが、興味深く読むうち、この本が出た。

 なるほどなあ。そういうことだったのか。と目を開かされることばか りの一冊。相対化の原則によって、この本の筆者たちがどれほど正確な ことを書いているのかは別に検証されなければならないだろうが(もと もと「反・社会党」「反・社会主義」の立場だろうと、社会党/社会主 義からの転向組であろうと、「まったく偏りのないものの見方」ができ ている保証はない)、「本当かも知れない」「そうかも知れない」と思 わされる説得力はある。

 巻末に田原総一朗のインタビューが載っているが、なんだかなあ。ぼ くはこの「ジャーナリスト」をあまり信用していない。単なる気分なの だが、いっときこの人が司会をするテレビ番組を見ていた頃、ゲストの 発言を遮って自分の意見を述べたり、誘導尋問みたいな仕方で自分(や 番組?)の都合のいいような発言をゲストから引き出そうとするやりく ちが鼻についた。このインタビューで言っていることも、なんだかなあ。

(12/08)

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『これ、なんですか? スネークマン・ショー』 桑原茂一2・監修、 新潮社、ISBN4-10-465101-X1300円

 解説不要。

(12/20)

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『論理パラドクス』  三浦俊彦、二見書房、ISBN4-576-02166-41500円

 旅先の本屋に平積みになっていたのを見て買った。後で調べたら、本 書の初版は2002年10月25日だった。隣にやはり平積みになっていた『論 理サバイバル』が新刊で、それに合わせて並んでいたらしい。とはいえ 本書も七刷を数えているようだ。というほど論理学界(論理学会じゃな いよ)から遠ざかっている身ではあるが、論理学は好きだし(好きとい うのも変だが)、プログラムを書く上では必要でもある。小説を書く上 でも必要だし、実は日常生活を営む上でも必要だ。さいきん「ロジカル シンキング」「論理的思考」なんて表題についた本が店頭を賑わせてい るが、何言ってんだ今さら、と莫迦にして立ち読みもしないでいる。

 目次を見るとお馴染のパラドックスがいくつも並んでいるので楽しみ に読み始めたら、少少様子が違う。著者の専門は哲学方面らしく、どう もそちらでは数理論理学とはちょっと異なる考え方をするみたいだ。もっ ともぼくも随分とご無沙汰しているからこちらの頭が呆けているのかも 知れない。

 といいつつ、久久に論理の快感に触れながら楽しく読んだが、第75問 の「終末論法」はいくら読んでも理解できなかった(もちろん、理解で きないものはほかにもたくさんある)。「平凡である」ということから、 なぜ「人類の終末が近い」と推論できるのだろうか。「平凡」というこ とばには、論理学では普通の意味と異なる意味でもあるのかな。

(12/23)

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『三人噺』 美濃部美津子、扶桑社、 ISBN4-594-03722-41333円

 落語を聞く耳を育てておくんだったな。

(12/23)

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『風流江戸雀』 杉浦日向子、新潮文庫、 ISBN4-10-114912-7514円

 杉浦日向子には興味があったのだけれど、今にして本格的にはまりそ うな気がしなくもない。

 川柳を取り上げて漫画にした作品、というとひとことで終わってしま う。ひとつひとつが味わいがある。川柳一句自体は十七文字の短いもの だが、それに解釈を加えてひとつのお話に仕立ててしまう想像力の豊か さに驚く。また、そのお話によって川柳が「理解」できる不思議。そし て、川柳って面白いなとまで思わされる快感。

 一番気に入ったのは次の一句。

れていても れぬふりをして られたがり

これ、この句だけ読まされたら、何のことか判らなかっただろう。しか し、この句に先立つ四ページの漫画のおかげで、ある一文字をわざと欠 いたものだということが如実に判る仕組みになっている。

(12/25)

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『江戸アルキ帖』 杉浦日向子、新潮文庫、 ISBN4-10-114911-9781円

 そんなわけでもう一冊。これは、「週に一回江戸に出かける」という モチーフで、出かけた先の情景を絵と短文に描いたもの。時間旅行だか ら好きな年に行けるのだが、出発点は日本橋、「門限」は夜の9時まで と決まっている。船に乗ったり歩いたりしていろいろな土地に出かけ、 眺めや飲食を楽しんだり通行人を観察したりしている。

 文を読み絵を眺めていると、江戸にいきたくなるね。(「行きたい」 と「生きたい」を掛けています)

(12/27)

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『江戸春画の性愛学 3』 福田和彦、KKベストセラーズ、 ISBN4-584-12061-71300円

 3月に読んだ本10月に読んだ本 の「続編」。

(12/28)

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『ローマ人の物語XII 迷走する帝国』 塩野七生、新潮社、 ISBN4-10-309621-72800円

 待望の第十二巻。このシリーズを読まないと年を越せない(この巻が 出るまでに『ローマ帝国衰亡史』を読み進めておこうと思っていたのだ が、まだ第一巻も終わっていない)。

 三世紀、ローマがかつての強さを失い、力をなくして衰退期に入った ことが誰の目にも明らかになった時期を描いている。やることなすこと すべてが「裏目」に出る。その時はそうは見えなくても、長い時間の後 にはそうなる。すべてが終わった後で大局から見ていると手に取るよう に判る、でもそれがなされた当時は、「どれほど悪い結果に終わったこ とでも、そもそもの動機は善意によるものであった(カエサル)」――

 帝国内に住むすべての自由民へのローマ市民権の付与(これがローマ 軍団から「補助兵」をなくしてしまうことはぼくにも容易に判った)。 元老院(政務)と軍団(軍務)の完全分離。軍団の主戦力の騎兵へのシ フト。どれもが、たぶんよかれと思ってなされた政策であるにもかかわ らず、ローマの再興を促すどころか没落を決定づけてしまう。著者は明 快に「ローマ(人)の非ローマ(人)化」と言っている。

 そして、皇帝位の目まぐるしい移り変わり。力量のない者が帝位につ き、無能が目につき出すと暗殺される、その繰り返し。稀に力量のある 皇帝が現われても、軍の意に染まないと思われると暗殺される。そうで なければ、でき過ぎとさえ思えるような、冗談のような不幸が降りかかっ て横死する。政策は一貫性を欠き、元老院はおろおろするばかりで、北 方の蛮族や東方のペルシアになめてかかられる。二百年の間鉄壁を誇っ た防衛戦は破られる一方、経済力の低下も隠しようがない。

 ついに来るべきものが来てしまったのだ。二千年も昔の話で、歴然た る事実なのに変な話だが、読んでいて痛ましい。どうにかならないもの かと思ってしまう。

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『まだ八月の美術館』 岩館真理子、集英社、 ISBN4-08-865002-6400円

 買ったのはずっと前だが、怖くて読めなかった。

 怖い? 岩館真理子にはあまり似つかわしくないことばかも知れない。 また、失礼でもあるだろう。でも正直な気持でもある。岩館真理子を読 むと、まず間違いなくヤラレルんである。

 案の定、やられた。この人はかつて少女漫画誌(週刊マーガレット) で描いていて、後にいわゆるレディースコミック誌に発表の場を移した が、作風はさほど変わらない。もちろんいわゆるレディースコミックに よくある「カッコつけてはいるけど、要するにエロ」というのとは一線 を画している。「一線を画している」なんて言うと何かしら関連があり そうでそんなことば遣いをすることさえ控えたいくらいである。

 何が言いたいかというと、岩館真理子の漫画は状況設定といい筋の展 開といい現実味に乏しい。これは少女漫画誌の頃から変わらない。現実 にはまずあり得ない(無理な)状況で、現実にはまずあり得ない(無理 な)話が起こり、進む。そんなことを言うと大概の少女漫画(に限るま いが)は「あり得ん話」を描いているわけだけれど、何というか、あり 得なさのありようがほかの少女漫画とは違う。いや、もしかしたら少女 漫画ならではの、少女漫画的なあり得なさなのかも知れない。少女漫画 研究家ではないので判らないだけかも知れない。たとえば、本書の中の ある作品では、全寮制の女学校から脱走する少女がいて、それを街まで 送り届ける道案内のアルバイト少年が登場する。別の作品では、主人公 は医者で、勤める病院に昔の恋人が難病で入院している。主人公には九 歳年下の義理の妹がいて、

 おまけに、これらの「あり得ない話」が、殆ど何の説明もなく、作中 人物の科白、対話や独白によってのみ描き出される。

 何が言いたいかというと、しかしそういう「あり得ない話」でも許せ てしまうということだ。それどころか、「あり得ない状況設定、あり得 ない筋」でしか描き出せないとても繊細で微妙な感覚や感情を、岩館真 理子は鮮やかに切り取って見せてくれる。

(以上、たぶん決して書かれない『岩館真理子論』から抜粋)

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