9.神戸市東灘区魚崎南町3の道標

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神戸市東灘区魚崎南町3丁目19−18 南北の道に東からの道が突き当たるT字辻の南東部に西を正面に建つ
(国道43号線、覚浄寺交差点の南30m、五百池公園北西角。魚崎八幡宮神社西側でもある。)
自然石(三角錐型) 132x80x45p(北東面87p)(東面高さ129p)
N34.711684 E135.273400


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西面
┌─―――――――――――――――――┐
│右大坂道              │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――――┐
│左兵庫道              │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面(三角錐の稜線となる)


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では東灘区8)
(明治の地図で見ると現国道43号を西国街道と表記しており、大坂と兵庫を案内するに相応しい設置場所はこの道に
 ある辻と思われ、元位置は北30mの四辻、
N34.712174 E135.273102
 現(2020)国道43号線に置かれていたと考えるなら、現西面が南面している必要があり、右側になる東面を見て
 西の兵庫へ向け進むと理解できるためには、四辻の北西部に位置する必要がある。
 石の形状からみて、東面(現南面)がやや南に向けて立っていたとし、東から来た人に「左兵庫」が南折れするの
 ではなく、西(直進に近い)に向かわせるような状態であったと想像する。
  尚、明治の地図では村中の道が細く描かれており現在の交差点とは大きく異なると思われる。)
(国道43号線に相当する「浜街道」と呼ばれる道は、「天保国絵図摂津国」にも細くではあるが朱書きされており、
 その頃には主要な道であった事が分かり、建設時期も江戸期としてもよいかと思う。)
(石には補修の跡が見られ、西面右端下から52p、上から17pに綺麗な接着痕が見え、自然に割れたものを修復した
 と思われる。但し上部は欠けて失われたかも知れない。又、西面「右大坂道」の右上に見える「´」は彫ったもの
 ではなく石自体の模様かと思う。)
(すぐ南には「魚崎町道路元標」が建てられておりこれも移設されていると思われる。その解説板にこの道標の記述
 があり、「これは旧西国街道の浜街道にあった道しるべである。震災後、地区会館を解体した際に、道路元標と向
 かい合うように移設された。東灘区歴史掘り起こし隊」とある。)
(西は「東灘区魚崎西町3の道標」へ続くが、東は「芦屋市役所南東角の道標」になるか。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南に望む
 左、覚浄寺交差点へ  奥、左右は43号  奥(南)浜魚崎線へ
 白い石標の右当道標】  左、魚崎八幡前バス停】  花壇前に道路元標】

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【4.道標を東に望む 【5.道標西面の拡大 【6.道標上部を東に望む
 左の西面に  大きく割れた跡は  ほぼ三角形である
 「右大坂道」とある】  修復されている】  上部欠損か知らない】

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【7.神戸市東部の道標】
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