10.川西市栄町27栄南団地内(大)道標

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川西市栄町27 栄南団地9号棟の東に大小2基が建つ
(もう一基、南側にbS.背の低い道標が建つ)
尖頭形角柱 106x20x20p(頂高6p)
N34.82673 E135.41107


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東面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│  平野 ゆもと               │
│右        大坂道           │
│  池田 伊丹                │
└―――――――――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│  多田満仲公奥ノ院             │
│左 忠孝山小童寺  道            │
│    是ヨり十丁西 う(ね)の       │
└―――――――――――――――――――――――┘
((ね)は欠損)

西面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│  東う祢の 山下              │
│右         道            │
│  一庫 ゆもと               │
└―――――――――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――――――――┐
│堂那多ても        施主  河州  嶌清│
│  忠孝山を信春れハ   世話人 同   福重│
│ 親も子達も末の         大坂  河善│
│  楽免久お路 行者□□よめる  小花村 喜助│
└―――――――――――――――――――――――┘
(「堂那多」は変体仮名「となた」で「どなたでも」)
(「州」は「刀」の下に「渋」右下に使う様な四つ点)
(「春」は変体仮名「す」で、「信ずれば」)
(「楽免久」は「楽めく」下二文字は変体仮名)


(『川西の歴史散歩』昭和60年刊では7)
(同書に、「旧笹山街道(川西ゴルフ倶楽部内)の中山峠に建てられていた。「bQ0.平野3の中央の道標」
 「bP9.東畦野1の道標」との中間辺り」とあり
N34.87645 E135.41066
 この旧道三差路の辺りとした。
 現北面の忠孝山小童寺への案内が一番重要視された道標と考えられるので、峠近辺で西へ向かう分岐はこの
 地点しかない。
 ただ、案内の西畦野迄で十丁(1.09q)が、現在では辿る術もないが、地図上で確認すると1.6qあり、5丁
 ほど足りない。
  こう考えてくると、現北面が南面となる。結果、180度回転し、西面は東面、東面は西面となり、右池田、
 伊丹は南を指し右東畦野、山下、一庫は北を指し正しい案内となる。
  では、『川西の歴史散歩』で指摘されている、「平野、ゆもと」が南北に存在する理由を見ると、平野ゆ
 もとは、この地のほぼ東になるが、地形上直行する道がない、依って北又は南へ迂回するしかなく、どちら
 を選んでも同じ距離であるので両方に刻んだと思われる。)
(『川西の歴史散歩』では、
 南面を
 「登那多ても       施主  河州 嶌清
    忠孝山を信春れハ  世話人 同  福重
   親も子達も身の        大坂 河善
    □免くお路 行者教心よめる 小花村喜助」
 としている。
 尚、右面「右 忠孝山小童寺」の「右」は「左」の誤りである。正しくは「左 忠孝山小童寺」である。)
(忠孝山小童寺(ちゅうこうさんしようどうじ)は、川西市西畦野杉之阪八番地(川西市西畦野1−7−1)
 にある浄土宗(元天台宗)の寺。本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作(長三尺寸)。
  源満仲が末子、幼名美女丸を手討に、との下意を受けた、重臣の藤原仲光が悩む姿を、その子、幸寿丸が
 目にし、自らが身代わりに命を差出す、後日これを知り出家し僧都となった美女丸(源賢)が弔いの為建て
 たとされる寺)
(又同書では、「ゆもと」と鼓が滝新道との考察から、建設年を、弘化三(1846)年以降としているが、「ゆ
 もと」の需要が多かった頃とすべきであろう。『摂津名所図会』寛政八(1796)年刊に「多田荘平野湯」が
 あり、その頃か。
 同書は、「国立国会図書館デジタルコレクション」42コマで参照可能、44コマには「忠孝山小童寺」も載る。)

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【1.道標二基を南西に望む 【2.道標を西に望む 【3.旧中山峠付近
 右の背の高い方が当道標  右の背の高い方が当道標】  (大正5年)北東廻
 後ろは集会所の建物】  
 りで平野へは一度
 
 
 山下方面へ進み後
 
 
 東へ分岐か】

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【4.川西北部の道標】

写真cimg7313
【5.川西南部の道標】

2022/10/3 訂正
 南面の歌を確認すべく再撮影に行き、結果翻刻に誤りあり訂正した。
 「堂那多手も」は「登那多ても」とし、
 「信春れバ」は「信春れハ」が適切であろう。
 やはり意味は通じず。写真を追加しました。

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【6.道標南面右上拡大 【7.道標南面右下拡大 【8.道標南面2行目下拡大
 「ウ」冠に見えるが  「た(多)」の変体仮名  「春れハ」
 右に二点が見えるので  「こ」が傾いた様な下は  「春(す)」が読み難い
 「登」であろう】  「手」でなく「て」であろう】  「ハ」は濁点なしとした】

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【9.道標南面4行目上拡大 【10.道標南下部拡大 【11.道標南面拡大
 「楽免く…」に見える  施主部分になる  もう何度目になるか
 「免久」は変体仮名とし  河内、大坂は遠く  曇った日に行ったが読めない
 接尾語「めく」とする】  小花村はすぐ南東】  後は拓本しかないか】

2023/9/10 訂正
 再び南面の歌を確認
 「親も子達も身の」は「親も子達も末の」にし
 「楽免くお路」を「楽免久お路」として「く」を変体仮名とし、「めく」を接尾語とした。
  尚、「楽めく」の読みは「ラクめく」か「タノシめく」かであろうが、私自身は聞いた事が無く分から
 ない。そこで、接尾語「める」を『旺文社古語辞典』でみると、「名詞や形容詞…に付いて動詞をつくる。
 「…のようになる」」とあり、「色めく」「きらめく」等の用例が上がっている。
 これに従へば、「楽めく」としてよく、「楽な、楽しくなる、お路」と解釈できる。
 「親も子達(たち)も、末(すえ)の楽(らく)めく、お路(みち)」と読めば、ここ以降の参詣道中の
 楽な事と、人生の今後の安寧(楽)とをカケて詠ったものと解釈できる気がして、この読みにします。
 詠人の所は「行者□□よめる」としたが名前が読めない。「教心」「喜心」「霜名」等少し違うと思う。
  依って南面の読み下しと、変体仮名の解説を訂正しました。
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【12.道標南面4行目
 詠人部分拡大
 コントラストを下げた
 「…者□□よめる…」】

  念のため前の内容を残しておきます。
 旧:「堂那多手も        施主  河州  嶌清」
   「 親も子達も身の         大坂  河善」
   「  楽免くお路 行者□□め□   小花村 喜助」
   (「楽免く」は「楽める」かもしれない)
【参考】
 仲光、幸寿丸親子の悲話は国立国会図書館デジタルコレクションの
 『前太平記』巻十五のコマ332、「美丈丸縦逸並勘気事」からコマ336辺りに載る。
 又、元位置とした三ツ辻は『今昔マップ on the web』で参照可。

2023/10/20 訂正
 忠孝山小童寺の旧住所に疑問があった為、『忠孝山菩提院小童寺の現地説明板』の住所に変更した。
 又、同書に「台座石に誉定心信士追善のために寄付したことが刻まれているが、同時に作成されたかは
 疑問」としています。台座石はまだ確認していません。
 同じく同書には、表裏の右方向の案内が不整合を成す理由として、新道開設後の追刻の可能性が述べら
 れているが、道案内にあって誤った方向を示したままにする事はあり得ないでしょう。
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