50.宝塚市中山寺2信徒館西の道標

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宝塚市中山寺2丁目11 中山寺信徒館の西に東を正面に建つ(奥ノ院への丁石と見るべき)
頭丸形角柱 148x30.5x30p(頂高6p)(台石36x45x45p含まず)
N34.821004 E135.366715


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東面
┌─――――――――――――――┐
│すくおくのゐん道 是より   │
│         十八丁   │
└―――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――┐
│ 世話人大坂傘講       │
│    大和屋与八      │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│   教岸          │
│(釋)妙煩 霊位       │
│   妙正          │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(この標には施主(願主)が無く「世話人大和屋与八」となっている。
 世話人とはどのような人なのか良くわからないが、北面に「霊位」とあることから、
 その人達を供養するためのものかと思うが、世話人との関係はどうなのでしょうか。
  尚、『たからづかの道標』(昭和61年刊)62では、
 「大和屋与八が教岸、妙煩、妙正の供養を兼ねて建立したものである。」と断言している。)
(『たからづかの道標』では北面、戒名?の前の一字を「繹」としている。
 ある資料では、釋号は浄土真宗で用い、法名の上に付くとあるので、それらしいが、
 「釋」ではないかも知れない。又、中山寺は真言宗であるらしい。
 『近畿地方の歴史の道9』 162頁でも「釈」となっている。)
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【1.北面拡大写真】

(「是ヨリ十八丁」とあるが、丁石が「十八」まで有るので、理論的には十九丁にすべきでないか。
 現在でも、十八丁石から奥ノ院本殿まで、100mを残している。
  又、現在不明であるこの道標の右(北側)に有ったとされる道標bU9.に「左是ヨリ本山道
 十八町」と彫られ、それが奥ノ院本殿の南東の分岐点に建っていたものであると仮定するならば、
 そこ(十八丁石の北20m、右は清荒神方面へ)からなら十八丁が正しいのかも知れない。
  本山側にこの案内を建てる時に、それを真似てしまって、誤った表記になったのではないか。
 或いは、これを厳密に丁石とせず、普通の道標と考え、奥ノ院までの距離を示したものとすれば
 切りの良い、一里(36丁)の半分、「十八丁」でも、よいかもしれない。)
(丁石詳細は、「bV0.壹丁」「bV1.貮丁」「番外1.中山寺奥の院その他丁石」を参照。)

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【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む 【4.宝塚南部近世の街道
 進入禁止のマークの右(南)側  奥への道が奥ノ院へ  奥ノ院参道は図の上部
 後ろが信徒会館の建物】  右後ろに梅園】  薄い桃色で示す】

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【5.宝塚西部の道標(明治44年)】 【6.宝塚東部の道標(明治44年)】
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【7.宝塚南部の道標(明治44年)】 【8.中山寺奥ノ院参道地図(明治44年)】

【訂正 2023年9月】
 誤:『たからづかの道標』では北面、戒名?の前の一字を「釋」
 正:『たからづかの道標』では北面、戒名?の前の一字を「繹」
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