22.豊中市本町1昭和の道標

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豊中市本町1−8−10 変則H(K)状交叉点(五叉路)東部に西を正面に建つ
尖頭型角柱 98x南面18.5x19p(頂高5p)(北東陵部欠損)
N34.78878 E135.46373


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南面
┌─――――――――――――――┐
│ 豊中々           │
│右   学校道        │
│ 梅花女           │
└―――――――――――――――┘
(「学」は旧字か)

西面
┌─――――――――――――――┐
│         内田    │
│左箕面街道櫻井谷村少路道   │
│         野畑    │
└―――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――┐
│昭和二年三月         │
│  施主櫻井谷村内田溝淵豊吉 │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(『とよなか歴史文化財ガイドブック』2014年、市教委編では、B2_48)
(同書に、「梅花女学校と豊中中学校(現府立豊中高等学校)に向かう学校道が新箕面街道を
 分断して開通したことで、道筋がわかりにくくなったために立てられたものです。」とあり
 経緯はハッキリしているようだが、明治44年測図地図には、学校方面への道は見えないが、
 大正12年測図の地図にはすでに存在している。よって道の開通と同時ではなさそうである。
 尚、「新」箕面街道としているのは、明治の頃の曽根の能勢街道から分かれ、
 「14.上野東1の道標」の辻を越え、梅花学園の東を通り、内田へ続く道を旧箕面街道と
 し、「新」としたもので、今の府道43号をを示すものではない。
  道標の有るここから、新箕面街道を進むと、内田、少路、野畑の各集落の順に通過する。
 内田の集落の南には、「13.上野西3明治時代の道標」が立っていたと思われれ、
 野畑には、「12.春日町2丁目の道標」が、元(現、野畑第二市民会館)は立っていたと
 思われる。)
(南面の「右学校道」、西面の「左箕面街道」の案内から見ると、元は、現位置から道を隔て
 た北側に立っていたものと思われる。何故なら、写真4を、車道に立って正面から見ると、
 学校への道が、「左」になり、不自然である。もし、左、阪急豊中駅への道が無ければ、現
 在地に有っても違和感はないが、大正の地図には道が見える。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南に望む 【4.道標を北東に望む
 木の根元に道標  奥(北東)学校道  左奥(南)箕面街道  「右…学校道」は
 左奥北へ府道43号】  左、少路、野畑へ】  右奥、豊中駅へ】  奥への道を示す】

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【5.豊中北部の道標】
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