箕面市牧落2−14 東西の西国街道と南北(箕面大坂道)の道が交差する四辻(高札の辻)の北東部に西を正面に建つ
二基の内小さい方、(大の方はこちら。)
山形後下り角柱 62x21.5x17p(頂高5p)(背面高さ58p)(下部10pで折)
N34.820541 E135.469101




西面
┌―――――――――――――――┐
│みのをみち │
└―――――――――――――――┘
南面
┌―――――――――――――――┐
│(享保五庚)子年十月日 │
└―――――――――――――――┘
北面
┌―――――――――――――――┐
│ 吉文字屋 │
│施主 大坂 │
│ 利兵衛 │
└―――――――――――――――┘
東面
┌―――――――――――――――┐
│(なし) │
└―――――――――――――――┘
(( )部は箕面のみちしるべより)
(享保五年十月1日なら1720年10月31日木曜日となる。)
(『箕面の道しるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、70)
(2022/5/23追記、PDF版の『箕面の道しるべ』が見れるようです。)
(同書に、南面の紀年について、「□□庚子年十月の二字目の字画から享保五年(1720)と推測できる。」
としている。
これは、二字目の「保」が読めたことを示していると受け取り、「五」年としたものと思われる。
私には読めなかったのであるが、二字目が「保」で、「子」年を鍵に、江戸時代の年号を見ると、年号では
「正保」「享保」「寛保」「天保」の四種があり、且つ子年があるのは
正保、5年(戊子)(1648年)があるが、十月は慶安元年である。
享保、5年(庚子)(1720年)
寛保、4年(甲子)(1744年)があるが、十月は延享元年である
天保、11年(庚子)(1840年)
となり、享保か天保が候補となろう。
又、同書に、「施主の吉文字屋利兵ヱは、…豊中市春日町二丁目の人家の角に生垣に隠れるようにして立
っている道標と同じ名前である。」とあるが、その道標は現在見当たらず、『とよなか歴史文化財ガイドブック』
にも、「箕面の道標が享保5年(1720)の銘を持つことから、かって春日町に有った道標も同じ頃に立てら
れたと考えられ、」とあるように、紀年は無かったと思われ、確定資料とはならなかった。
(引き続き調査としたい。)
尚、年号と年数は読取れないが干支をみると「子」の右上に「人」が見え十干の「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」
内から該当する文字は、「庚」又は「癸」と考えられるが、その上の扁のバランスを見ると、「庚子」がよ
り近い様に思う。
江戸時代の、「庚子」年を挙げると、
1.慶長 五年1600年
2.万治 三年1660年
3.享保 五年1720年
4.安永 九年1780年
5.天保十一年1840年
があり、いずれも十月が存在する。
兵庫県下で最も古い道標とされているのが、寛文八年、西暦1668年「宝塚市安倉南4姥ヶ茶屋の道標」
で、これの風化具合と比べると、当道標の方が新しく見える。
享保年間の道標では、享保21年 「宝塚市安倉南4の道標」がある。)
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【1.道標を北東に望む |
【2.道標を西に望む |
【3.道標を北に望む |
奥(北)箕面へ |
奥(西)半町、瀬川へ |
右側に大きな道標 |
右、西国街道京都へ】 |
南北の道は箕面街道】 |
左案内板手前が当道標】 |
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【4.道標南面上部を望む |
【5.道標南面下部を望む |
【6.道標を南東に望む |
年号部分は読めない |
こちらはそこそこ残り |
施主もそこそこ残る |
手で触ると凹凸はある】 |
「…子年十月日」と読める】 |
「屋」部分は欠損】 |
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【7.道標を北西に望む |
【8.道標を南に望む |
【9.箕面市の道標】 |
上部舟の舳先状の先端 |
右奥(南)野畑へ |
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西面部が欠けている】 |
筋違いの辻になる】 |
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道標後ろの案内板

牧落の旧札場と道標
本地は、もと牧落村の高札場(掲示
場である。幕府や領主から出された
命令・規則の御触れを書いた木札」・貼
紙をここに掲示して、村民・諸人へ知
らしめた。この地は箕面・大坂道と西
国街道の交わる四ッ辻にあたるので、
行路の目安となる道標二基が今も建
っており、次のような道しるべが刻
まれている。
大坂 四り半
大 天神 道
はっとり 二 り
小 みのをみち
箕面市教育委員会
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