箕面市牧落2−14 東西の西国街道と南北(箕面大坂道)の道が交差する四辻(高札の辻)の北東部に西を正面に建つ
二基の内大きい方(東側)(小の方はこちら。)
尖頭型角柱 127x23X23p(頂高7p)(指差像部20x22x深さ1p)
N34.8205087 E135.4691511




西面
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│ 大坂 四リ半 │
│(右指差像) 天神 道 │
│ はつとり ニリ │
└―――――――――――――――――┘
南面
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│ 世 當 西川四兵衛 │
│ 話 中西治右兵ヱ門 │
│ 人 村 木屋清 蔵 │
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北面
┌―――――――――――――――――┐
│存覚上人 從是南 │
│ 刀根山御坊 │
│御舊跡 十五丁 │
└―――――――――――――――――┘
東面
┌―――――――――――――――――┐
│(なし) │
└―――――――――――――――――┘
(現状、西面の(右方指差し像)は南方向を示す。)
(『箕面の道しるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では、70)
(2022/5/23追記、PDF版の『箕面の道しるべ』が見れるようです。)
(「存覚上人御舊跡…」が見えにくい位置に有、逆に世話人が道に正対していたり、何かしっくりとこない。
きっと移設されてその時に手の指差し方向だけを南に合わせたのであろう。
元位置を「刀根山御坊十五丁(現在地からは3q)」から箕面街道上で探すと
第一の候補として、豊中市春日町2丁目5−32の三叉路
N34.80916 E135.46591
辺りか
或いは、その北、豊中市春日町3丁目2−8の三叉路(現在は消滅)を第二の候補として
N34.81043 E135.46665
辺りに建っていたと考えられれ、何れも、野畑集落の北部となる。
では、ここから「服部2里」を検証してみよう。天神としているので、現、西参道の、旧能勢街道との
交点までとする。
明治44年地図で、(旧)箕面街道を想定し長興寺南で能勢街道と合流する道筋を、地図上で計ってみる
と6.9q(1.8里)となり、「二里」は正しいように思われ、上記想定の二地点(第二地点で5.7q)から
では1.4〜1.5里となり、大坂へ半里の表記を用いていることから考えると、「一里半」と表記すべきで
「二里」とはしないであろう、依って上記候補地から移設されたとす仮定は崩れるか。
ここで、碑面の彫りを比べてみると、北面「存覚上人御舊跡…」に比べ、西面、南面の彫りの深さが浅
く、筆跡も異なる様に見え、且つ、西面には指差し像が彫られている点(指差し像の多くは明治)を考え
あわせると、西面と南面は追刻されたものではないか。
即ち、最初、「存覚上人御舊跡…」碑として、上記候補地に立てられていたものを、後日現地点に移設し、
この時、未使用の二面に追刻をし、道標として流用したと考えたい。現在地に移設するのであるから、服
部までは「二里」と追刻できる。)
(西面の指差し像の袖部こそ、字面より上に出ているが、手指部分は掘り下げた様にも見え、追刻の可能性
を高めている。
道標を厳密に測定し、指差し像部での断面は、完全な正方形でなく、北面を下にした時、台形状を呈し、
底辺23.8p、上辺22.8p、左辺23.5p、右辺22.9pとなり、袖の部分(北面の出っ張り部となる)が1p、
字面より高くなっている。もし西面に追刻したのであれば、1p程度、字面を削ったのであろうか。
ここの道標と同じ用例ではないかと思える、「西宮市門戸岡田町4の厄神道標」
があり、此方の彫り方と共通していると思う。
典型的な浮き彫り例としては、「宝塚市清荒神3−2の道標」を挙げておく、
4pも厚みがあり、追刻の余地はないでしょう。)
(因みに、現道標の西横に建つ現在の案内には、「服部天神→7.8q」と記されているが、これも一里=
3.9qを道標の二里を用い単に二倍にして求めたものであろう、距離をqで表すなら6.9であろう。
他の三地点の距離に問題は無いが、如何なものか。)
(刀根山御坊を示すものとして、「豊中市刀根山元町1の(大)道標」があり、こちらも移設
されている様だ。)
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【1.道標を北東に望む |
【2.道標を北に望む |
【3.道標を北東に望む |
奥(北)箕面へ |
奥(西)半町、瀬川へ |
右側大が当道標 |
右、西国街道京都へ】 |
南北の道は箕面街道】 |
左案内板手前が小道標】 |
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【4.道標を東に望む |
【5.北面上部拡大 |
【6.南面下部拡大 |
西面の指差し像が |
覚の字の右横が少し |
「世話人」と「当村」は |
全体の均衡を崩す】 |
彫り込まれているか】 |
横書き、名前は縦書き】 |
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【7.道標上部拡大 |
【8.道標を南に望む |
【9.箕面市の道標】 |
指差し像は周りを |
右奥(南)箕面街道を野畑へ |
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1p掘り下げているか】 |
筋違いの辻である】 |
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道標後ろの案内板

牧落の旧札場と道標
本地は、もと牧落村の高札場(掲示
場である。幕府や領主から出された
命令・規則の御触れを書いた木札」・貼
紙をここに掲示して、村民・諸人へ知
らしめた。この地は箕面・大坂道と西
国街道の交わる四ッ辻にあたるので、
行路の目安となる道標二基が今も建
っており、次のような道しるべが刻
まれている。
大坂 四り半
大 天神 道
はっとり 二 り
小 みのをみち
箕面市教育委員会
(「大」道標の北面の解説がないのは、何か理由があるのか。「…刀根山御坊、従是南十五丁」は道しるべ
扱いとしなかった為か。
地元の方の話によると、刀根山御坊は格式が高く参勤交代の大名でさえも素通りが許されないような事も
あったらしく、通行に関しては避ける傾向でもあるのだろうか。)
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