72.宝塚市中山荘園4の道標

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宝塚市中山荘園4 中山寺より奥の院への参道(旧道)二丁と三丁の丁石の間に東を正面に建つ
(参道登りが正面になっている。右シンボル広場からの道が合流しているが、左は民家になっており道が無い。)
(少し上に左(南)市杵島姫神社に続く道があるが本山とは関係なさそう。)
尖頭形角柱 87x24x24p(頂高5p)
N34.822137 E135.363861


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東面
┌─―――――――――――――――┐
│左本山道            │
└――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――┐
│享保十九甲寅年十一月      │
│       施主(辰巳)   │
└――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(享保十九年十一月1日なら、1734年11月25日木曜日となる。)
(( )部は『たからづかの道標』(昭和61年刊)66より、
 又、「奥の院への二丁石と三丁石の中間わき道の分岐点にある。…丁石より、ひと月前に建立…」と
 ある。)
(先ず、「本山」を地名とするか、中山寺本山とするか。
 摂津元禄国絵図(元禄九年(1696年)作成指示、同十五年(1702年)完成)から村名を探し
 たが、見当たらない。明治の地図でも近辺には無く、もちろん、現在の地名で宝塚に本山はない。
 よって、中山寺本山を示すものとする。
  建立当時から今の位置にあり、奥ノ院が「本山」ならこれでもよいが、奥ノ院を本山とはしない。
 現在置かれている位置は、東シンボル広場から登ってくる道が参道に突き当たるT字路の北部にあ
 るため、左、参道を下る方向を示すために立っているが、奥ノ院を目指す人の為に、元の中山寺を
 案内するのは、不自然であり、案内するなら、「右奥ノ院」であろう。
 又明治の地図では、広場からの道は無い。
  では、この近辺の参道沿いで、「左本山(中山寺)」を必要とする地点を探すと、少し上の中山荘
 園3丁目の北西端地点か、ほぼ現在地点の二ヶ所が考えられる。
 中山荘園3丁目の北西端の三叉路は、近年の道であり、これを除外すると、やはり今ある場所となる。
 今ある場所では右への分岐が無い(今は民家の塀で仕切られている)が、明治の地図を見るとここに、
 市杵島姫神社から登ってくる道と、この参道とが合流する三叉路が見受けられ、右(南)への分岐が
 あったと考えられる。
 奥ノ院から参道を下り、中山寺(本山)へ導くためには、道標の向きを180度、回転させここに置
 けば、ピタリとはまる道標となる。
  依って、位置は元のまま(若干の移動はあるかもしれ無い)、で反転して置かれていたとする。)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)63に紹介されている、今不明の「左本山道是ヨリ十八丁」の
 道標が同じ施主、同じ建立日らしく、不明になる前は、奥ノ院参道の入口右側にあった様で、これが
 上記の論法と同じ「本山道」を示すと考えて、奥ノ院からの帰り道を示すために、奥ノ院前の左右に
 分岐する地点に北面して建っていたとすれば、他の一連の丁石と、この道標も含めて、一式で寄進さ
 れたであろう事が素直に想像される。)
(施主が辰巳休海であるとすれば、この道標を、何故僅か一か月、丁石に先立ち建てたのであろうか。
 同時に発注したのだが、此方が先に完成し、本当に出来上がった日が彫られ、丁石は数日遅れの、
 月跨りで完成した。
 或るいは、丁石と異なる石工に発注したため、出来上がりに差が出た。等と考えるのは楽しい。)

写真p1020150 写真p1020152 写真p1020149
【1.道標を西に望む 【2.道標のやや上から東を望む 【3.更に40m上現在の分岐点
 奥(西)は奥ノ院参道  右に分岐する道が有ったか  中山荘園3丁目の北西端の電柱
 右は広場から登ってきた道】  今はコンクリート擁壁とフェンス】  右は市杵島姫神社への舗装路】

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【4.宝塚北東部の道標(明治44)】

写真dimg2119 写真dimg0759 写真dimg2263
【5.宝塚西部の道標(明治44年)】 【6.宝塚東部の道標(明治44年)】 【7.中山寺奥ノ院参道地図(明治44年)】

【訂正 2023年9月】
 誤:南面の読み下し「享保十九庚寅年十一月」
 正:「享保十九甲寅年十一月」

 『たからづかの道標』66で「十一月」と正しく読み、6465で読み誤った「十二月」との
 差で「ひと月前に建立された」としたと思われ、これを無批判で受入れ上記の記述となったもの
 ですが、紀年の月は同一であり「施主が辰巳…等と考えるのは楽しい。」は無かった事にする。
  丁石については「番外1.中山寺奥ノ院丁石一覧」を参照下さい。
 又、『今昔マップ on the web』明治の地図も合わせて見て下さい。
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