89.高槻市金竜寺二丁丁石

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高槻市安満御所の町(成合かも) 府道79号安満御所の町北(磐手橋北)交差点から北東折れ、
桧尾川支流沿いに北へ細道を150m、橋を東に渡った南側に南を正面に建つ
山形板碑 76x南面27.5x18.5p(頂高7p、稜線1p下る)(碑面龕部69x19x-1p)
N34.867911 E135.629995


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南面
┌――――――――――――――――――――┐
│(梵字)二町              │
└――――――――――――――――――――┘
(梵字はバク「釈迦如来」の種子)

西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、58)
(同書には、一、三丁が無く、二丁から弁天池横の十三丁迄存在する。としている。
 一方、国立国会図書館デジタルアーカイブの『攝津名所圖會』. [6]のコマ番号59に絵が載り、説明(コマ番号57)
 には「成合村の山腹にあり、坂路八丁標石あり」とあり、別の参道(成合東の町か)もあったようである。
 絵の中には、当参道と思われる道に、台石が付いているが、それらしき石標が二基見られ、これが丁石なら、寛政
 十年(1798年)より前に建てられていたとする事が出来るかも知れない。尚、下記「丁石建立紀銘石」には、延寶
 四年五月十四日(1676年6月25日)とありこの時のものである可能性は高く、絵図にあっても矛盾はしない。)
(当参道を、現在の地図で見ると、当丁石から本堂が有ったと思われる地点まで、水平距離で1.2q(11丁)となり
 一丁間隔の丁石を十三基並べるには、少し窮屈な気がする。よって、前述の書にも解説されている「十三仏信仰」
 の影響を受けて、本来の丁石機能よりも、「十三」を置くことに拘った建て方をしたような気がする。
  強いて丁石としての起点を示すなら、明治の地図から、古丹波街道(柳谷観音道・京坂越え道)の磐手橋の北で
 参詣道が分岐する三ツ辻であろうが、此処からも本堂迄の距離は1.3q(12丁)となりやや短いと思える。
  一方、移設の有無は分らないが、この丁石の手前80mに「金竜寺丁石建立紀銘石」があり、これが起点の可能性が
 高く、移動がなくてその石が起点を示し、一丁丁石が有ったものならば、更に距離も間隔も短くなる。
 次の「四丁丁石」までは、230mある。)
(尚、「金竜寺丁石一覧」も参照下さい。)
(この参道を「太閤道」として紹介するものが多くありますが、「太閤道」は昭和も戦後に創られました。)

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【1.丁石を北東に望む 【2.丁石を南東に望む 【3.丁石を北に望む
 左(北)金竜寺へ  左(北)金竜寺へ  奥(北)金竜寺へ
 右、安満御所の町へ】  奥、安満御所の町へ】  左、病院裏手、行止りか】

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【4.丁石南面拡大 【5.丁石南面上部より
 龕風に彫り下げ  山形稜線は1p下がる
 蓮台の丸中に梵字】  厚みは有るが板碑とした】

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【6.金竜寺参道地図】

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【7.高槻中部の道標】
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【8.高槻南部の道標】
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