2.島本町高浜常春寺の道標

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三島郡島本町島本町高浜1丁目15 寺南側墓地の北部中央に南を正面に建つ
(寺へは、高浜道西側の小さな案内標石のある三ツ辻を西の路地に入り南折れ。)
墓石、角柱型上部面取、74x南面31.5x31p(面取高3p)
台石、二段目20x48x49p
台石、一段目22x64x67p
巻石、5x91x78p
N34.873313 E135.669836


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南面                  台石部
                    ┌―――┐
                    │七ッ松│
┌――――――――――――――――――┐│ 門 │
│鬼勝定吉墓             ││ 弟 │
└――――――――――――――――――┘│ 中 │
                    │   │
                    └―――┘
(「松」は「木」の下に「公」と彫る)

西面
┌――――――――――――――――――┐
│右 や者多道            │
│左 京 山さ起           │
└――――――――――――――――――┘
(「者、多、起」は変体仮名「は、た、き」
  やはたは「八幡」、やまさきは「山崎」)

北面
┌――――――――――――――――――┐
│天保五甲午年            │
│妙法止静院玄日咸信士        │
│ 七月廿五日            │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――┐
│維時安政四丁巳年 願主  傳助   │
│         施主  村中   │
│ 二月建之    世話人 若中   │
└――――――――――――――――――┘


(天保五(甲午)年七月廿五日は、西暦1834年8月29日金曜日となる。
 安政四(丁巳)年二月1日なら、西暦1857年2月24日火曜日となり、天保は命日、安政は墓石建立の日であろう。
 23年後となるので、二十三回忌に建てたものかと思われる。)
(『史跡をたずねて』島本町教育委員会発行、平成18年刊では、204)
(同書は、鬼勝定吉を力士としている。力士の墓を道標に利用する例は他にもあり
 1.84 宝塚市大原野紙屋の道標
 2.26 川西市柳谷の題目塔道標
 等を挙げておく。)
(道案内を書くぐらいであるから、元は路傍にあったと思われ、この近辺を明治の地図で見ると、四か所が候補となり、
 1.前述の「高浜の道標」のある辻、
 2.村の西春日神社から、村に入る分岐点の三ツ辻、
 3.上記辻から北側の道を進み高浜道に出会う三ツ辻、
 4.上牧から堤上を北進してきて右舟乗り場、左高浜道へ降りるT字路
 等が挙げられるが、人通りを考えると、1.の可能性が高いと思う。)

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【1.寺への辻を南に望む 【2.寺門を南に望む 【3.墓地内より北東を望む
 右フェンス後の寺への  門の右に建物  左端正面を向く当道標
 石標を右に入る】  奥に進み墓地へ】  右民家後に高浜道】

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【4.道標を北に望む 【5.墓石下部を拡大 【6.西面下部拡大
 左が当道標(墓石)  下から巻石、台石一段  「やはた道」
 左面に案内がある】  二段目に「七ッ松…」】  「京 山さき」】

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【7.墓石北面上部拡大 【8.墓石東面上部拡大
 戒名を中央に  「維時安政四…」
 天保五年七月廿五日】  「二月建之…」】

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【9.島本町の道標】
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