75.能勢町野間中今谷道入口の道標

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能勢町野間中 旧R477野間中交差点から府道4号を南東に1.2q道の北側、鳥居の東柱の南部に
南を正面に建つ
(乾橋からは現府道4号を約750m東)
尖頭型角柱 74x18x18p(頂高3p)(西面整面幅16p)
N34.941382 E135.464502


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南面
┌―――――――――――――――┐
│是ヨリ            │
│左 奥ノ院妙見山近道     │
└―――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――┐
│施主 元 初日講 岡部新太郎 │
└―――――――――――――――┘
(「元」は直径 8.5pの○で囲む)

北面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では75)
(同書に「…近道の道標で、本道は地黄の真如寺から登る道をいう。」とあり、妙見山上から北へ本瀧寺を
 経て此処まで下って来て、更に西、野間中まで下った後、旧能勢街道を北上し地黄、地黄から再び東へ折
 れて真如寺を過ぎ奥ノ院への約4qを、本道としている。しかしこの地点からほぼ300mの等高線に沿っ
 て野間大原の集落を抜け今谷道を進めば約3qと想定でき、近道に違いない。明治の地図では読み取れな
 いが存在していた道であろう。(大正15年の地図には載る。)
 同書では「奥ノ院今谷道」としている。「野間大原206の道標」参照。)
(施主について同書は、大阪市港区八幡屋町の人で、明治二十年(1887)に奥ノ院再建と参道修復に尽力し
 た、初日講の講元であったとしている。(私注.「八幡屋町」はwikiによると「港区は1925年(大正14年)、
 北区・西区の各一部より成立」した。とあり当時の住所ではなさそうで、明治の地図で当該地を見ると現
 在の「八幡屋1〜4町目」は人家が無くここではないであろう。安治川の南堤防沿いに集落が見えるが、
 現在この地(中央体育館北西、北岸テーマパーク辺り)は全て川底と成っているようだ。)
(南面の「左」であるが、左が鳥居を潜る道を示すには、野間中方面から南東に登って来た時であろう。も
 し北西に下っている場合に「左」とされたなら、現府道を野間中に下る方向を指示すると受け取られる。
 依ってこの位置に立てたのは、先に妙見山から奥ノ院へ向かう人の為の案内としたが、むしろ、妙見山へ
 参拝に行く人に、奥ノ院は「こちらにどうぞ」と勧める意思が見える道標ではなかろうか。進む方向を示
 すと受取らず、道標の有る「左側の道」と解釈できるのなら変な憶測は要らないが。
  尚、この地より北東直線450mに「野間大原206の道標」があるが、鳥居の下の道を採ると、横に立
 つ「22丁丁石」からほぼ500m(4.5丁)と少し長くなり、道標から50m(0.5丁)北に「17丁丁石」
 がありピタリ5丁となっている。
  又、「近道」なる表現は皆無ではなく、「尼崎市食満6の題目塔道標」にもある。
 江戸期の道標にたまに見る「ぬけみち(抜道)」と表現するもの等には注意が必要な場合もあるようだが、
 同書の言う「本道」に比べ「近い」と、単純に受け取れば良いと思う。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を東に望む
 左奥(北西)野間中へ  左、府道を妙見山へ  奥(南東)妙見山へ
 鳥居の道、野間大原へ】  右(北西)野間中へ】  左鳥居道、奥ノ院へ】

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【4.道標北西に望む 【5.道標南面上部 【6.道標南面下部
 右手前が当道標  「左奥ノ院」の左は  「…近道」とある
 左は22丁の丁石】  何処から見て左か】  奥ノ院を強く勧めるか】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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