32.能勢町宿野久佐々神社の道標

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能勢町宿野280 府道54号宿野、久佐々神社東側参道入口の北西、生垣裏に西を正面に建つ
(府道54号と104号の合流する信号のある三ツ辻交差点より東400m、道の北側)
板碑型 62x31x16p
N34.975948 E135.419233


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西面
┌――――――――――――――――┐
│ 右 京ミち          │
│是より             │
│ 左 せんか者多        │
└――――――――――――――――┘
(「者多」は「はた」の変体仮名)
(「せんかはた」「千ガ畑」か)

南面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――┐
│元禄七年十一月吉日       │
└――――――――――――――――┘


(元禄七(甲戌)年十一月1日とすると、西暦1694年12月17日火曜日となる。)
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では32)
(同書に「…京道はここから宿野大橋へ直進して大坂峠越えとなる。一方千ガ畑道は谷の西側山脚を集落を
 結びながら北進する。」としている。現在(2019年)の状況で述べると、「京道」は府道54を300m東進
 後南折れし府道732に入り宿野大橋を渡り逢坂峠を越え、山内に至る。一方、京都府亀岡市畑野町千ケ畑
 へは、府道54をを東進し、宿野2区公民館辺りから道なりに北へ向かい平石を過ぎて京都府へ続くと出来
 る。
  明治の地図で江戸期の道を想像すると、西から来た道は現地点のすぐ東辺りで三ツ辻となっており、右
 (南東)宿野久保と、左(北東)宿野拝原に分かれていた様で、この辻の東部に西面していたと思われる。
  この地点は、国立公文書館デジタルアーカイブ元禄国絵図摂津国(元禄9年)にも明記されており、北
への道は「国境谷、丹波廣野村迄二十六町」としており名称は書かれていない。
 廣野村とその北の千ノ畑村は、同丹波国絵図(元禄15年)に描かれており、「千ノ畑村」が「千ケ畑」
 であると思われる。
  「右京道」を採り逢坂峠を越えると、「山内の地蔵道標」に出会い、それにも「京亀山」と案内があり、
 京へ繋がっている事が分る。)
(現在道標の有る道が旧道ならば、上記の三ツ辻は、東50mの民家の土塀に突き当たる辻の様に思える、も
 しそうなら元位置は
N34.976103 E135.419779
 辺り、能勢町宿野459−1の民家の西と出来そうだが、如何か。)
(又同書に「能勢で紀年名のある道標では三番目に古いもの」としている。一番が寛文11(1671)年の
 「長谷才ノ神峠の道標2」、二番がこれと同じ元禄7(1694)年4月の「吉野道分け道標」と思われる
 が、二番目が見つからないので、私的にはこれが二番目か。)
 
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【1.道標を西に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を北東に望む
 左生垣端に当道標  後、右から左府道54  左奥、久佐々神社
 右手に久佐々神社】  左手前、東側参道】  左右が旧道かも】

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【4.道標を東に望む 【5.道標西面拡大 【6.道標北面拡大
 板碑としたが  右側「右京ミち」  「元禄七年十一月吉日」
 上は右寄りの山形】  左側「左せんか者多」】  「一月」が見難い】

写真fimg4150
【7.元の辻?を南に望む
 奥、府道54を越えて
 宿野久保への旧道か】

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【8.能勢町西部の道標】 【9.能勢町東部の道標】
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